猫額洞の日々

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2009年 01月 04日

宮部みゆき「おそろし」読了

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 忘れていた訳じゃない宮部みゆき「おそろし 三島屋変調
百物語事始」(角川書店 08初帯)を、一昨日だか読了。

 その前後にフローベル「三つの物語」(新潮文庫 63年10刷
帯)から「純な心」だけ読んだり、「一角獣・多角獣」(シオドア・
スタージョン 早川書房 異色作家短篇集3 05初帯)を読み
始めた。
 さあ、宮部みゆき、憶えているだろうか。前回、読物と
エンタテインメントの差異、なぞと書いたことは憶えている。

 新聞やTVで、残虐で不可解な事件を伝える際に、便利に
使われる「心の闇」という言葉がある。漠然として無内容な
言葉で、結局なんにも言ってはいないが、その「心の闇」が
作り出す怪異を描いた連作短篇集だ。生々しくしないためも
あってであろう、江戸時代の百物語仕立になっている。

 いいアレンジだ。時代考証もしっかりしている、と感じさせる。
ただ、解りやすく書くことに重きを置き過ぎてはいないか。
怪談は引算で書く方が効果的だと思うのだが。

 読物と称して怪談を書いた岡本綺堂にしても、久生十蘭
の妙な話にしても、直接的な解説は控えた記述である。
(引算の美学の後継者である都筑道夫になると、引算
し過ぎて、これでは何の話だかピントが合わないのじゃ
ないか、というのが、彼の晩年の怪奇小説に対する感想
なのだが。)

 ひとの魂を喰らって生き続ける家、というスティーヴン・
キングめいた「凶宅」より引用すると__
<「[略]屋敷が焼けて失くなり、あのなかに棲(す)みついて
いたものは、新しい住(す)み処(か)を見つけなくては
ならなくなりました」
 魂を呑まれ、器だけになったおたかという少女は、うってつけの
住み処だった。
 「何のことはない、安藤坂の屋敷は、今はおたか姉さんの
身体の内にあるのです。おたか姉さんは、そういう役割を
引き受けたのでしょう」>(p162~163)

 地の文でならともかく、会話での説明が過剰ではないか。
ここで綺堂や十蘭を思い出した。エンタテインメントにあっては、
親切丁寧でなければならない、法則でもあるんじゃないか、と
考えてしまった由縁。効果を考える以上に、解りやすさをまず
要請されているのだろうか?

 意欲的で面白かったけれど、ここらに引っかかり続けながら
読み終える。
 あと、江戸前と今風がうまく使われ、それこそ解りやすい
生き生きした会話ではあったが、一カ所、気になった。
<「[略]お二人は、ちょっと似ているように思えます。お顔立ちが
 どうのというのじゃなくて、雰囲気と申しますかね」>(p230)
 「雰囲気」って、江戸言葉ではどう言えばいいのかしら。
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by byogakudo | 2009-01-04 13:37 | 読書ノート | Comments(0)


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