猫額洞の日々

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2015年 09月 25日 ( 1 )


2015年 09月 25日

由良君美「みみずく偏書記」読了

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~9月24日より続く

 窮すれば通ず。"血圧の高そうな文体"というフレーズを思いついた。

 近頃では、あまり熱した風を見せず少し斜にかまえて、言いたいこと・
訴えたいことからも身をかわす姿勢を見せる芸風こそ、おしゃれ心ある
知性とされるようだから、その面では昔のひとの文体であろう。
 でも臭みに対する熱狂的なファン層というのも底流にあって、これは
これで長く続く。"近代"の枠組みに対する抵抗自体、近代の産物なので、
まだ落とし前は着いてないのさ。

 本についての本は、読者自身の本の記憶も立ち上げる。
 『わたしの読書遍歴』中の『翻訳の読み方__回想風に』によれば、
由良君美は菊池寛他編集の「小学生全集」から翻訳書を読みはじめた。
中でも『アラビアン・ナイト』が気に入り、

<児童用の再話や抄話でないものが欲しくなった。幸い日夏耿之介たちの
 全訳が当時あって、小学生には難しかったが、背のびをすれば読むことが
 できた。この全訳(バートン版)が与えてくれた充実感と満足は忘れられない。
 以後、児童用再話本や抄話本は駄目だと根深く信ずるようになった。その
 信念は、『ロビンソン・クルーソー』を児童用再話本から全訳へと進んで
 読んでみたときに、ますます強められたからである。
 [中略]
 翻訳書からスタイルの味を教えられたのは、小学四年の頃読んだ鶴見祐輔
 訳『プルターク英雄伝』だった。そのリズム感にあふれる訳しぶりに引き
 ずられて、ぐいぐい読み、以後文体の際立っていないものに不満をもつように
 なった。>(p203)

 恐るべき小学生。しかし「プルターク英雄伝」で思い出したが、宇能鴻一郎
こと嵯峨島昭「軽井沢夫人」で、主人公の愛読書として、たしかこの本が挙げ
られていたのではなかったかしら。
 宇能鴻一郎は1934年生れ、由良君美、1929年。5歳ちがいだ。

 「軽井沢夫人」の1979年頃の若い衆である主人公の、これが愛読書?
あの頃の若い男が読む本だろうか、という謎があった。
 仕方ないから、自分でサイドストーリーを作って合理化しながら読んだ。
きっとこの貧しい青年の生家にただ一冊だけあった、おそらくは戦死した
伯父の形見か何かで、彼はきっとこれしか本を読んでいないんじゃないか、
ということで自分を納得させた。

 『書物についての書物』の『外山滋比古『異本論』__読者なくして作品
なし』には、

<通信が、送り手と受け手があって成りたち、受け手によって完成される
 ものであるように、作品も読者によって読まれることで、情報行為が完成
 する。その際の、読む読者は、作者の存在や意図などはおかまいなしに、
 自分に引きつけて読むのであって、そうでなければ、作品は生き生きと
 読まれることはできない。
 [略]
  読まれることで作品は新しく生まれ変るのだから、読むという行為は
 一種の<異本づくり>になる。>(p329~331)

 わたしは小学生のころ、何が好きだったかしら? 「秘密の花園」が中学生
時分の「恐るべき子供たち」につながったのだろうか。

     (由良君美「みみずく偏書記」 ちくま文庫 2012初 帯 J)





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by byogakudo | 2015-09-25 17:12 | 読書ノート | Comments(0)