猫額洞の日々

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2016年 03月 27日 ( 1 )


2016年 03月 27日

藤田一人・美術評『「田中青坪 永遠のモダンボーイ」展』

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 東京新聞・3月25日(金)夕刊に、藤田一人による『「田中青坪 永遠のモダン
ボーイ」展』批評があった。田中青坪(せいひょう)(1903~1994)と言われても
知らないし、画像検索してみると興味の範囲外の画家であるが、藤田一人の批評、
その"近代論"がなるほどと思えたので、書き抜いておきたい。

< 田中青坪は洋画からスタート、日本画に転向し、大正、昭和の院展において、
 その一翼を担った。
 [略]
 時代感覚にも敏感で、大正期は岸田劉生等のデロリとした写実の影響を受け、
 昭和に入り都会的センスをたたえた鮮やかな色彩とシャープな形態へと向かい、
 さらに戦後は強い線と形態による構成的画面を追究した後、晩年には浅間山を
 主な題材に柔らかい自然描写に至る。そのキャリアには、時代の空気に率直に
 反応し、表現しようとした画家としての誠実さを感じる。
  しかし、激動する時代を表現するには、画家として多少線が細い印象も否めない。
 [略]
 確かに、都会的でシャレたセンスを持ったモダンボーイではあるのだが、リアルな
 現実と対峙(たいじ)し、そこから問題を探るモダニストではない。そしてそれは、
 日本のモダニズム全般に当てはまるのかもしれない。日本のモダニズムは情緒で
 あって、思想ではないのだ。
  そんなモダンボーイがモダンなスタイルを捨て、自然な情感に身を委ねることで
 成熟に至る。それが画家に限らず近代的日本人の等身大の姿なのかもしれない。>
(『東京新聞』2016年3月25日(金)夕刊 第7面)

 <日本のモダニズムは情緒であって、思想ではない>。そうだったのか! 
 モダーニズムを思想の問題と捉えていたから、わたしはあちこちで躓いていたのだ。

 日本にあってはモダーニズムはテンポラリな風俗、ファッションであり、せいぜいが
"ジャズで踊ってリキュルで更け"る類いのできごとでしかなかったと認識してようやく、
近代にケリをつけるもつけないもなく、いつの間にか、時代は自動的にポストモダーンに
滑り落ちるのも当然かと了承した。(まったく、なんてだらしない!)

 <モダンなスタイルを捨て、自然な情感に身を委ねることで成熟に至る。それが
 画家に限らず近代的日本人の等身大の姿なのかもしれない。>

__なんだか泣けてくるような近代日本人の肖像である。若い頃は周りのファッション
に敏感に反応して、つき従い、老いては老いた身体の欲求するがままになる。
 どこかで自分の意志で選んで行動したことはないのだろうか。"等身大"ってのが
クセものだろう。自分では何も考えない、責任を持たない、ということでしょう?

 近代の男や女は、近代の浮上とともに現れた前近代(=土着)と、ストラッグル
してきた。その様子はなんとも暑苦しく見苦しいとは思うけれど、それが必要だった
から、やったまでである。
 いまやポストモダーンの御代であろうが、お墓参りに行って「○○家之墓」と
彫られた文字に何も悩まずに対峙できるのがポストモダーンというのなら、それは
たんにおめでたいだけであろう。
 ケリはつけられず、近代なんてなかったこととして封印され忘れ去られるなら、
ポストモダーンは、次のファッショナブルな思想(=情感)を待つだけの時間、
近代の剰りの時間に過ぎない。





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by byogakudo | 2016-03-27 21:50 | 読書ノート | Comments(0)