2017年 04月 12日 ( 1 )


2017年 04月 12日

(2)笠信太郎『なくてななくせ』読了

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~3月30日より続く

 1964年から1966年にかけて書かれたエッセイであるが、

< 勲等に至っては数年前、ずいぶん反対もあったのに、そして
 それを復活した手続はどうだったかというと、新しい法律にも
 よらず、すこぶる疑問のある中を、閣議決定ということで強引に
 やってのけられたものでしたが、その勲等の等級を定めるのに
 何か新しく合理的な方法が発見されたわけでもありません。
  いうまでもないことながら、位階や勲等は、文化勲章とか、
 藍綬褒章(らんじゅほうしょう)のような特定の文化的な寄与とか、
 産業上の功績とかを表彰するものとは、まるで違った性質のもの
 であります。なにぶん、前者は、人間の等級をきめるようなことに
 なるのですから。
  そこで、勲等も位階と同様に戦後はすこぶる遠慮がちな姿勢で
 始められました。はじめは八十歳以上の人だけに出しました。
 これなら文句はあるまいというやり方のようでした。それが次には
 七十五歳以上になり、こんどは七十歳以上になりました。足音を
 立てないで歩くというやり方のようです。次は、そして、そのまた
 次は、どういうことになりますか。
  これら一切のことが、デモクラシーを打樹てようと国民すべてが
 決意した戦後の出来事だということは、いかに、段々畑式の社会
 のイメージが、その頭の中から消え去らないかということを示して
 いる、といって差支えありますまい。>
(p241『はげしい人間の「対流」』『第八章 社会のくせ』)

 勲等が<閣議決定という>手法で復活したのは池田内閣のときだ。
"閣議決定"は、自民党政権の伝統芸能として長く継承されている、
という証明だろう。

 近頃は<足音を立てないで歩く>どころか、足音高く、鼻息荒く、
横柄に振舞ってもかまわないという認識が、安倍晋三・独裁政権下の
閣僚、自民党議員・公明党議員、官僚、等々の段々畑ヒエラルキーに
蔓延している。

 明治維新でいきなり四民平等と言われたって、支配されるシステムに
慣れた(新しい日本国)国民は、市民同士で横につながる関係をつくり
上げようとはしなかった。願った人々は少しいたけれど、手をつなぐべき
横からは剣呑視され無視され、段々畑の低層から殺された。
 敗戦後、またしても他者から自由と平等を鼓吹されたが、独立した個人
の横断的つながりは、なかなかできなかったまま21世紀になったが。


     (笠信太郎『なくてななくせ』 朝日文庫 1987初 J)



呪 吐爛腐/呪 亜屁沈臓/呪 共謀罪=ネオ治安維持法/

 「私人は喚問しながら首相夫人は」識者が語る官邸の暴走

杉田敦・法政大教授 森友学園の籠池(かごいけ)泰典前理事長は
 私人ですが、国会で証人喚問されました。ところが公人たる政治家や、
 官僚は、野党の要求にもかかわらず誰ひとり証人喚問されていない。

 長谷部恭男・早稲田大教授 国政調査権の使い方がいかにも党派的
 です。米議会や英議会では、国政調査権を党派的に発動しないと
 いうのが大原則です。どちらかの党派に有利/不利だから呼ぶ/
 呼ばないという判断は、少なくとも建前としてはしないことになって
 いる。中長期的な国政上の課題について調べることが目的ですから。

 杉田 証人として呼ぶのは、犯罪の嫌疑がある人だとする政治家も
 いました。

 長谷部 話が逆転しています。従来議論されてきたのは、国政調査権
 を行使することで犯罪の捜査や裁判の遂行に不当な影響を及ぼすのは
 よくない、捜査対象者は呼ぶべきではないのではないか、という点
 でした。>

杉田 昭恵氏が国会で証言すれば、白黒がつく可能性もある。
 安倍首相は「悪魔の証明」は出来ないなどと言いますが、当事者の
 言い分が食い違うことは、よくあること。どちらが信用できるかを
 裁判等で判断するのであって、それは悪魔の証明でも何でもない。
 単なる事実認定です。

 長谷部 ボールは政権側のコートにある。同じコートに出て打ち返す
 ことは、悪魔でなくてもできます。首相を侮辱した、というわけの
 わからない理由で私人が証人喚問されている。私人にそこまで要求
 しておきながら、文書は破棄したので何も言えないと官僚は開き直り、
 首相夫人は私人だからで済ませています。極めてバランスが悪い。

 杉田 官僚の文書廃棄については専門家から、違法ではないかとの指摘
 さえあります。保存期間を定めた公文書管理法の欠陥もありそうですが、
 仮に違法とまでは言えないとしても、そうした無責任な行政のあり方が
 許されるものなのか。

 長谷部 違法でなければ何をやってもいいのか。私人であればOKです。
 人のひんしゅくを買うような行為でも、それは個人の判断です。しかし、
 公人や公務員は違う。中長期的な社会公共のために行動する、そのために
 様々な権限や便宜を与えられているのだから、私人と同じように法に触れ
 なければいいということには、なりません。>

教育勅語について__

長谷部 [略]学校は、街頭やネット上のような一般的な表現の自由が
 成り立つ場所ではありません。教育の出発点は憲法26条の子どもが
 学習する権利です。将来、子どもが自分自身で物事を判断できるように
 なるための材料を提供しないといけないのだから、教えていい話とそう
 でない話の線引きがあるのは当たり前です。>





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by byogakudo | 2017-04-12 21:23 | 読書ノート | Comments(0)