猫額洞の日々

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カテゴリ:読書ノート( 2400 )


2006年 03月 02日

「書物漫遊記」

 困った末に、雨の中 店を片づける どさくさまぎれに 種村季弘の文庫本を2冊、
引っ掴んで帰る。「書物漫遊記」と「食物漫遊記」、どちらも86年初と85年初の
ちくま文庫であり、すでに読んだことがある。いよいよネタ切れ か。

 しかし案ずるより気持よく再読できるのが有難い。半分くらい読み直して、
こんなに戦争の記憶が強い記述だったっけと思う。

 第1章 不思議な節穴 武井武雄『戦中気侭画帳』 の章なぞ、痛い。
 戦前・戦中の小学生時代、池袋に住んでいた種村季弘の近所に武井武雄邸が
あった。
 門や主屋は純和風、ルネサンス風の柱廊伝いに洋風アトリエという作りで、
戦中は中庭の噴水は水が枯れ、温室の菊は凋んでいる有様で、幽霊屋敷のような
印象だったらしいが、その中に立て籠って外を見続けた武井武雄の眼が
「戦中気侭画帳」に表れていると言う。

 敗戦後に育った人間から見ると、戦中は何でもかでも統制・規制されていた
ように思われるが、実際はまだリベラリズムの残り香が漂っていたこと、戦局の
悪化につれて人々の表情やたたずまいが惨めになっていく様子が「画帳」に
描かれているが、種村季弘にとってこの本が大事なのは、少年期を過ごした街と
人々の記憶が、もはやこの本の中にしか求められないことにある。
 街は45年4月13日夜の空襲で消滅した。彼はこども時代の家の跡を訪れようとは
しない。
   <私の家のかつてあった場所は、いま二軒に区切られて、三味線屋と
   一杯飲み屋になっているという。人伝てに聞いたその話だけで私には充分
   である。かりに訪れてみても、そこにがあるわけはなくて、
   のつづきがシラケているだけに違いないからだ。>

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by byogakudo | 2006-03-02 16:14 | 読書ノート | Comments(0)
2006年 03月 01日

「人間以上」読了

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 久しぶりにゲシュタルトという言葉を眼にした。緻密に構成されたSFであるが、
大好きと言うには もう一つ。たぶん、この肯定的なトーンがあまりノレない原因
だろう。とても良くできているのだけれど、マイナー・ポエト好きが災いして
いい読者になれない。スタージョン、すまない!(スタージョン 早川文庫 01年24刷)

 いよいよ今夜の本がない。古本屋腐し__(c)「たわごとの庭」a 氏__の雨が
続いているのに暢気なことを言っているが、寝床本がないのは恐怖である。

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by byogakudo | 2006-03-01 14:07 | 読書ノート | Comments(0)
2006年 02月 28日

フエンテス「アウラ」再読

 安藤哲行訳(エディシオン・アルシーヴ 82初函帯)である。岩波文庫版は
二人称が「あなた」、こちらは「おまえ」を使用。

 二人称の訳し方の違いががいちばん目立っているが、トーンの違いは歴然と
している。アルシーヴ版の演劇的な身振り、岩波文庫版の淡々と穏やかな翻訳振り。
 もしかしたら文庫版の方が原文に忠実かも知れないというヤマカンも働くけれど、
日本語で読む小説として見た場合、わたしは単行本の翻訳に惹かれる。張詰めた
空気のままエンディングに引きずり込まれる。

 再読しても、やはりこの緊張感が素晴らしい。Sに言わせれば「レースや
オーガンジーみたいな」感触の読後感である。
 主人公・アウラの緑色の眼はジャン・ロラン「フォカス氏」を思い出させ、
世紀末文学の伝統か とも思うが、赤い目をしてヒロインのベッドの周りを飛び跳ねる
白い兎は、何のメタファーだろう?
 耐えがたいほど美しい ネクロフィリア物語だった、やっぱり。

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by byogakudo | 2006-02-28 18:29 | 読書ノート | Comments(3)
2006年 02月 26日

「神々がほほえむ夜」から「夢見る宝石」へ

 昨日は失礼いたしました。夕方 少し混んで、書きそびれました。打って変わって
今日はいつもの静かな猫額洞です、ああ。

 「神々がほほえむ夜」(ライト ハヤカワ文庫 85初)、犯人も穏当なところに
落着し、夫婦仲もよくなり、めでたしであろう。読み終えて2日経つと ほとんど
記憶がなくなっていることを発見して、がっかりする。

 警部がスカッシュに汗を流したり、捜査でストリップ・バーに入ってみたりと、
80年代風俗もうまく取り入れられている。余談であるが、ハリウッド映画で
ストリップ・バーが出てくる度に「アメリカ人の心のふる里か」と感じていたが、
カナダにあっても同じようなものです。

 実は出来心で「学生時代」(久米正雄 新潮文庫 78年62刷)を買ってみたけれど、
読む勇気が出ない。退屈を愉しむゆとりがないのだろうか? 「夢見る宝石」
(スタージョン ハヤカワ文庫 79初)再読中。家出して偶然カーニヴァルのトラックに
乗り込んだ主人公の少年に、こびとが何か芸ができるかと訊ね、
 「それじゃ何か謳ってみな。・・・(中略)・・・『スターダスト』を
知ってるかい?」___いいなあ。
   <彼は歌いだした。トラックの騒音がひどいので、大きな声をはりあげ
   なければならなかった。声をはりあげるためには、硬鋼労働者が体重を
   利用して風に抵抗するように、歌にもたれかかり、自分の一部を歌に
   吹きこまなければならなかった。>

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by byogakudo | 2006-02-26 17:27 | 読書ノート | Comments(0)
2006年 02月 24日

「神々がほほえむ夜」途中

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 オランダ・ミステリに味をしめて?カナダのミステリに手を出した。お師匠
さんを見習って、ダメモトで知らない小説家を試してみる。悪くない。

 ウェテリンクと違い、こちらは一人の警官を主人公にしている。トロントの
大学教授がモントリオールの学会中に殺され、うだつの上がらない警部が
担当することになる。カナダもアメリカと同じように他民族国家であり、英仏語を
国語とすると言いながら、英語が主言語であることなぞ、カナダ社会の様子が
描写されている。

 カナダと聞くとグレン・グールドとレナード・コーエンしか浮かばなかったが、
アメリカほどではなくとも やはり人種差別が存在している。主人公の警部は
アングロ・サクソン系のトロント人、奥さんはプリンス・エドワード島(「赤毛の
アン」を忘れていた!)出身のスコットランド系でお金持ちの家柄、家庭内でも
時々 人種・階級に根ざした問題が生じない訳でもない。

 半分強読んでいるが、捜査はじわじわとしか進まない。関係者への聞き込みに
明け暮れる警部だが、カナダの警官は奥さんに事件の内容を話したりしていて、
いいのかしら? 奥さんで思い出したが、出てくる女性全員の一人称が「あたし」
なのは、フェミニストに叱られても知らないぞと言いたくなった。年齢・身分に
関係なく「あたし」である。翻訳者は気付いていなかったのだろうか?
                  (エリック・ライト ハヤカワ文庫 85初)

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by byogakudo | 2006-02-24 18:24 | 読書ノート | Comments(0)
2006年 02月 23日

「黒死館殺人事件」vs「錦絵殺人事件」

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 「黒死館殺人事件」は解るが、「錦絵殺人事件」って?と思われることで
あろう。こちらは島田一男の探偵小説で、春陽文庫に入っている。

 昨日付けに「たわごとの庭」 a 氏の読後感が記されているが、はぼ同感です。
(決して「ドグラ・マグラ」で口直ししようとは思わないけれど)。

 ただ、後年「錦絵殺人事件」を読んだことで、わたしは「黒死館」の文体の
必然性が理解できたような気がする。あれは日本の風土にゴシック趣味の館を
建設するために 必要になったネチっこい文体、日本の洋画的・油絵の具 厚塗り
文体ではないだろうか?

 「錦絵殺人事件」にも こちらは和風であるが大邸宅が出てくる。邸宅というより
天守閣付きの むしろお城である。登場人物の口を借りて、あれこれ様式の説明が
される。
 書画骨董の類いも凝っていて、三幅の錦絵はプレ・ラファエライトの画家・
ワッツの「希望」「愛と人生」「マンモン(黄金神)」を翻案した代物だとか、
他にも美術解剖だのオカルティズムだの、いろいろ蘊蓄が披露される。その
語り口の平べったいこと、退屈なこと、読みながら腹が立つくらいだったが、
その時 忽然と「黒死館」が解った。必然性が理解できた。

 「錦絵」も館や美術品をたんにトリックと効果のために用いるのでなく、物語の
必然性に基づく使い方があった筈であるのだが、残念ながら小説の骨格性に何ら
関わっていない。

 と ようやく「黒死館」理解に至ったところで、再読してみようかという体力は
すでに失われていたのだが それ以来、あまり小栗虫太郎の悪口は言わなくなった。
 でも70年代に小栗や夢野久作たちに使われたキャッチフレーズ_「異端の復権」
という言葉の鬱陶しかったこと。あのコピーライトのせいで、当時は読む気に
なれず、やっと80年代も半ばを過ぎてから手に取ったのだ。どうしてくれよう?

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by byogakudo | 2006-02-23 15:57 | 読書ノート | Comments(0)
2006年 02月 21日

「風が吹いたら」

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(池部良 文春文庫 94初)を昨夜から。
 池部良のお父さんが画家の池部鈞であるのは知っていたが、お母さんが
岡本一平の妹とは知らなかった。(忘れていたのかも解らない)。
 だから池部良と岡本太郎とは当然 従兄同士になる。年齢は太郎が7歳上だ
そうだが。

 近い親戚なのに 池部良が伯父さん伯母さん夫妻に会ったのが一度きりなのは、
一平・妹たる良の母上が兄嫁・かの子を嫌っていたからだそうである。
 文庫本中の「すばらしい大人」から引用すると、
   <「かの子さんは独りよがりの宣伝屋、世の中は何んでも自分の為に
   あると思ってる。兄さんはひとが好いからかの子さんにいいように
   引き回されている」>といったような嫌い方であったらしい。

 池部鈞の方は、非難・批判めいた言葉もないかわり、賞賛もしない態度。
そんな没交渉な家庭同士であったが、或る日フランスから帰ってくる岡本夫妻を
横浜まで迎えに行くので「連れてってやろうか」と、池部鈞と息子たちは
港に向かう(お母さんの様子が書かれていない。たぶん彼女は出向かなかった
のだろう)。

 カメラマンに囲まれた岡本夫妻に近づいた池部鈞が、一平に「よう」と声をかけ、
一平は「おお」と応じる。一平の声で気付いたかの子が「まあ、良ちゃん」と
頭を撫でてくれる。
 淡白な親戚同士の交換風景であるが、14歳の池部良少年は大人の恰好よさを
しっかり記憶する。「よう」「おお」の間に
   <互いにお互いを理解する光線が往復したように思えた。親戚だから
   義兄弟だからということよりも男と男、伯母に対しては男と男的な「情」と
   「理性」が深く落ちついて噴いているように思えた。互いの考え方、互いが
   築いた仕事を批判もせず侵しもせず自慢気に吹聴することもない沈潜した
   「男」の、或いは「大人」の世界を持ったひとだけの「情」と「理性」の
   交換のようで、もしあのとき僕が十四歳の子供ではなくもっと世の中を
   理解出来る年頃だったら感激に近い気持で涙を浮かべたかも知れない。>

 大正リベラリズムは かく