カテゴリ:森茉莉( 62 )


2016年 10月 26日

森茉莉付近(45)/(3)辰野隆『忘れ得ぬ人々と谷崎潤一郎』読了

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 写真は16日(日)、善福寺の犬。建物が道路より下にあり、60年代頃
のお家かと眺めるともなく見ていたら、ふうっと現れた。吠えもせず、
ただ、どなたですか、みたいに登場して、金網越しに触れるほど近づいて
きた。なつかしくなるような犬。

~10月24日より続く

 『書狼書豚』より引用。
<書物でも珍本、稀覯書、豪華版と来ると、こいつは多きを惧れ、
 少ければ少いほど所有者は鼻を高くする。斯ういう病が高じると、
 世界に二冊しかない珍本を二冊とも買取って一冊は焼捨ててしまわ
 ねば気がすまなくなって来る。親友山田珠樹、鈴木信太郎の両君が
 正に此種の天狗のカテゴリイに属する豪の者である。彼等の言い草に
 依ると、「あれほど味の佳い秋刀魚や鰯が、あり余るほど漁(と)れて、
 安価(やす)いのが、そもそも怪しからん」のだそうである。
 [略]
  鈴木信太郎君は嘗て僕を「豪華版の醍醐味を解せぬ東夷西戎
 南蛮北狄の如き奴」と極めつけた。山田珠樹君は先頃たまたま、
 「彼は本は読めればよし酒は飲めればよし、といった外道である」
 と、全(まる)で僕を年中濁酒(どぶろく)を飲みながら、普及版
 ばかり読んでいる書狼(ビブリオ・ルウ)扱いにした。
 [略]
 二昔以前に遡って、未だ両君が型のくずれぬ角帽を頂いていた
 秀才時代から、次第に書癖が高じて、やがて書痴となり書狂となり
 遂に今日の書豚(ビブリオ・コッション)と成り果てた因果に想い到る
 と、僕にも多少の責任が無くはない。そもそも両君が一日僕を訪れて、
 書斎の書架に気を付けの姿勢で列んでいた仏蘭西の群書を一目見てから
 の事で、[略]ふらふらと病みついたのであった。その後僅か数年の間に、
 僕の蔵書数は山田君に追越され、鈴木君に追抜かれ、今では僕もつくづく、
 後の雁が先になる悲哀を楽しむ境に残された。>(p166-167)

<蔵書の数に於いては、山田君に一日の長があり、豪華版の多種な点では、
 何と言っても鈴木君に指を屈せざるを得ない。山田君の好んで蒐めている
 のは、仏蘭西小説とそれに関する文献であるが、鈴木君のは仏蘭西詩歌
 殊に象徴詩とその文献で、全く見事なコレクションである。加之、両君の
 書斎が又愛書家にふさわしい洵に立派なものである。>(p169)

< 数年前、僕は九州大学の成瀬教授から一本を贈られた事がある。
 書名は『ポン・ヌッフ橋畔、シラノ・ド・ベルジュラックと野師ブリオシエ
 の猿との決闘』というものである。
 [略]
 之は非常な稀覯書で、而も扉の見返には近代の愛書家四名の書蔵票(エキス・
 リブリス)が連貼してある。シャルル・ノディエ、ジュウル・ルナアル、
 エドワアル・ムウラ、及びド・フルウリイ男爵の蔵書票なのである。
 [略]
  此の『シラノ猿猴格闘録』は小型の渋い美装本であるが、[略]少々心配に
 なって来た。握持慾だけ旺盛で、保存慾の希薄な僕が、もし此の珍書を失くす
 ような事があったら、それこそ一大事だと思った。
  数日後、山田、鈴木両君に会って、此の奇書の話をすると、両君の目の色が
 見る見る変って来た。[略]どうせ俺には保存慾はないのだから、欲しければ
 与(や)ってもいいよ、と軽く言って見た。二人は欲しいとも何とも言わずに、
 唯うむと唸っただけであった。その後更に数日を経てから改めて図書館に
 山田君を訪ねた。すると、虫が知らせたとでもいうのだろう。その席に偶然
 鈴木君も来ているのだ。僕は二人の顔を見比べてつとめて冷静を装いながら、
 例の珍本を取り出して、先日話した本は実は是なんだがねと、独言のように
 言って、この本を卓の上に抛り出した。すると、その瞬間に__全く打てば響く
 と言うか、電光のような速さで鈴木君が、
  __ありがとう! と呶鳴った。
  見ると、山田君はたゞ飽気に取られて、
  __早えなあ! と言ったまま、眼を白黒させている。>(p170-172)

<エドゥワアル・フウルニエが著した『史的文学的雑録』(一八五五年)
 という書物がある。
 [略]
 第一巻に『シラノ猿猴格闘録』が収められてその解説が施されている。
 それに拠ると本書の初版は全く湮滅(いんめつ)した、刊行年代は一六
 五五年前後らしいと言われている。一七〇四年の再版が唯一冊残存して
 いたのが、シャルル・ノディエの有に帰し、後にそれがルウ・ド・ランシイと
 いう男の手に渡り、此のド・ランシイ君から借用して茲に翻刻した、と断って
 あるそうである。
  鈴木君の御託宣に依ると、本書は世界に一冊しかなく、而も、その所有者
 が夫子自らに他ならぬと言うわけなのである。
 [略]
  若し火事が起って君の蔵書を悉く焼き尽したら君は一体どうする、と僕は
 嘗て鈴木君に冗談半分に訊ねて見た。すると鈴木君は、その時弁慶すこしも
 騒がず、泰然自若として答えた。
  __必ず発狂して見せる。
                                                              (昭和七年秋)>(p172-174)

 その後、戦争があった。日本中、あちこちが戦火に襲われた。

     (辰野隆『忘れ得ぬ人々と谷崎潤一郎』 中公文庫 2015初 J)
 





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by byogakudo | 2016-10-26 22:09 | 森茉莉 | Comments(0)
2016年 10月 24日

森茉莉付近(44)/(2)辰野隆『忘れ得ぬ人々と谷崎潤一郎』終りかける

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~10月19日より続く(?)

 かつて離婚は犯罪であった。
 夫が妻を離婚するのは、妻の側に落度があるからと周囲は
認識する。落度には子どもが生まれない、生まれても男児が
誕生しなかったことも含まれる。男の側に不妊の原因がある
可能性は考慮されなかった。
 妻の方から離婚を切り出すと、夫から離縁されたときより、
もっと重罪人である。家庭は一国の基、それを女だてらに破壊
するなんて、とんでもない確信犯である。自分は当事者でなく
ても社会的制裁を加えねばならぬ、正義のために。国家の存続
のために。

 離婚後の森茉莉バッシングを率いた印象の強い辰野隆だが、
彼としては山田珠樹への友情から発したバッシングであると
信じていたのではないか。
 友人を否定するような女の行為は、到底ひとごとと放って
おけるできごとではない。自分が否定されたも同然のことだと、
認識したのではないか。
 後の時代に、彼の反応は、ホモソーシャルな力学関係にあった
からだと理解されようとは、思いも寄らず、予想もできなかった
だろうが、いまの視点で見ると、彼/彼らの反応はそうだ。
 社会的に確立された"男"という存在様式を、ひとりの女から否定
されたと感じての怒り。国家=家庭システムから逃れようとする女
が表現する、"個"の自由の概念への嫉妬。

 「このまま一緒にいると、わたしは暗いひとになってしまう」怖れ
から離婚に踏み切った森茉莉の思想は、当時は理解されなかっただろう
と思うけれど。

 けれども、ひとは時代の枠組みの中で自己形成する。森茉莉もまた
当時の思想によって規定される。アンチという形式で表現されること
であっても。

 『鈴木三重吉との因縁__喧嘩口論は酒の下物__』に、
"きたならしい"という言葉が出てくる。

 俳句<短夜の雨となりたる別れ哉>の感想を聞かれた辰野隆は、
<その句は男同志か女同志の別離を指すものなら相当な句と
 思うが、男と女の別離ならきたならしい句だと答えた。>(p143)

 清らかな(!)友情や友愛はホモソーシャルな間柄にしか存在せず、
ヘテロ間では起こりようがない感情や抒情であるとする思想であろう。
それは、友愛が性愛へと移ることを異常に恐れる思想でもある。二者は
断じて混同されることなく分別され続けなくてはならない、とする。

 性愛に対するタブー意識・検閲意識は、ある程度は本能として在る。
性的なエネルギーは、放置すればコントロールが利かない事態を招く
こともあるので、個体維持の本能、個体の集合延長としての共同体維持
意識がストップをかける。

 明治政府は日本国統一のために、かつては専ら武家社会に向けての
統治イデオロギーであった儒教的ストイシズムを万民に拡げようとした、
と理解しているが、これが明治の精神であるとすると、森茉莉も辰野隆も
(荷風も、潤一郎も...)そこで生きてきた。
 性愛は基本的に表沙汰にしてはならないこと、という前提は彼らに共有
される。

 感情に蓋をすれば内圧が高まる。結婚している男女が仲よさげに並んで
歩く様子まで、即、人前での性愛表現だと急速度で妄想されかねない、
いまから見れば逆に、性的ポテンシャル、高いなあと思う明治時代は、
儒教にプロテスタンンティズムがミックスされて、性愛はきたならしいこと
とされてしまった。

 森茉莉は、"きれいな恋愛"だってあるとする立場で、男同士の恋愛や
小悪魔的美少女が男たちを翻弄する小説を描いてきたが、それは"きたない
(とされる)性愛"意識へのアンチテーゼであり、テーゼは"恋愛は性愛に
つながる、きたないもの"として頑強に存在した。

 恋愛や性愛に清潔の概念を持ち込んで、どうするつもりなんだと思うのは、
わたしたちが今の時代に生きているからだ。明治のイデオロギーに生きる
辰野隆にしてみれば、パリ時代、弱ったのではないか。

 山田珠樹は妻である山田(森)茉莉を伴って留学している。森茉莉は
パリに文学を研究しにきたのではない。夫についてきて、毎日のんきに
散歩している。それだけで異分子だ。国費や貴重な外貨を費やして留学
するからには、帰国後、必ず、お国の役に立つ存在にならなければ、富国
強兵イデオロギーの日本国に対して申訳が立たないであろうに。
 文学も美術も音楽も、すべて外遊や留学には日本の文明開化の役に立つ
はず、というエクスキューズが一拍、置かれた時代だ。

 辰野隆はたぶん、妻を同伴してきてない(と思うが未確認)。
 パリの同じ下宿で身近に接する、妻以外の日本人の異性であり友人の妻で
ある、若い山田・森・茉莉と、どう距離をとればいいのか、よくわからない
苦手な存在だったのではないかしら。

 森茉莉が美容院に行ってるとき雨が降り出し、山田珠樹が都合が悪くて
辰野隆が傘を届けに来てくれた話を、森茉莉がどこかに書いていたと思う。
 そのときの辰野の、男女七歳にして云々の異性意識丸出しの、ガチガチ
緊張ぶりを、彼女は否定的に記述していた、と記憶しているが。

 同性の友人には、いくらでも好意が示せても、相手が異性となると親の敵に
向かうかのようになるのは、非文明開化的ではないか。
 自分がさらっと振舞えなかったことを、逆に、彼女の彼への侮辱と認識して
しまったので、後の森茉莉バッシングへと移行したのではないかしら。

     (辰野隆『忘れ得ぬ人々と谷崎潤一郎』 中公文庫 2015初 J)

10月26日に続く~





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by byogakudo | 2016-10-24 20:52 | 森茉莉 | Comments(2)
2016年 04月 28日

森茉莉付近(43)/アンドリュー・ヴァクス+大井廣介+加藤周一

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 アンドリュー・ヴァクス/佐々田雅子 訳『赤毛のストレーガ』(ハヤカワ
文庫 1995初 J)が届いたので読み出したら、大井廣介『紙上殺人現場
からくちミステリ年評』(現代教養文庫 1987初 J)も届いた。
 なぜこれを注文したかと言えば、もっぱら地下鉄移動時に読んでいる加藤
周一『西洋讃美』(現代教養文庫リバイバル・セレクション 1993年2刷 J)
の巻末目録にあったから。

 文庫目録を読むのは楽しい。中学生時分から好きだった。
 これが収められている(いた)のか、これも入ってる、と目を走らせる。
子どものころとの違いは、読んだ本にレ点をつけたりしないところだ。手に
いれようと思った本は、すばやくタイトル等を小さな付箋に書いて、財布に
入れておくか、近ごろは速やかに通信販売で探す。買いたいときが読みたい
とき!

 そんなことしてるから積読本が溜まる。昨日も伊呂波文庫で、半澤正時
『横浜ことはじめ』(かもめ文庫 神奈川合同出版 1988初)__夜寝る前に
少しずつ読むのによさそう__と、単行本の森茉莉『戀人たちの森』(新潮社
1974年12刷 函 三島由紀夫の推薦文・帯)を買う。

 むかし妄想した『日本下宿屋文学選集』(2007年2月25日2007年2月26日
2007年2月27日)を、候補作(?!)毎に読んでいけば、わたしの頭の中で編集
した一冊本ができるではないかと思いつき、倉運荘ライフの『贅沢貧乏』もいいが、
よりフィクショナルで貸間生活の『ボッチチェリの扉』と、パウロが住むアパートの
描写があった『戀人たちの森』にした。





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by byogakudo | 2016-04-28 17:39 | 森茉莉 | Comments(0)
2016年 03月 02日

今週のホイホイ(3)+森茉莉付近(42)/キーン『古典の愉しみ』+『吉行淳之介エッセイ・コレクション4』

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 指のすきまからこぼれた砂を集めるように、書き落としを集めよう。

~2月27日より続く

 読み終わったドナルド・キーン/大庭みな子 訳『古典の愉しみ』
からの追加引用は、まず『第一章 日本の美学』の『徒然草』に
見られる、古びたものへの愛好癖だ。

<絹のうすものがほつれたり、軸から螺鈿が落ちるのは、多くの
 外国人にとっては困ったことで、持ち主は修理屋に出すだろうが、
 日本では完全性や、昨日作られたかと思われるような華やかさは、
 多くの人の手を経てきたことがわかるようなものと比べて、高く
 評価はされないのだ。そういう古いものは、私がかつて講義を聞いた
 ことがあるロバート・グレイブスの話の中でのアラブのバラク(Barak)
 と呼ばれているものと同様な、神秘的な性質さえ帯びてくる。たとえば
 三十年のあいだ人が叩いたタイプライターは、そのちょっとしたくせに
 さえ親しみや愛着も湧いてくるものだから、そのタイプライターはやっと
 バラクになったというわけだ。
 [略]
 一般に西欧では、鋳造されたまま人の手に渡ったことがない貨幣の
 ように、昨日描かれたり刻まれたりしたばかりというようなものに
 憧れるが、それは骨董品からその歴史を奪いとってしまうものだ。
 日本人は多くの人の手を渡ったことがわかるような芸術作品を高く
 評価する。>(p37~38)

 不完全性やモノとして劣化した状態に美を感じるのが、日本の基本的な
美意識であることには同意する。若い人の間でも、たとえば錆びたトタン板
を愛でたりするがしかし、近ごろではもう一方、西欧化された整理整頓愛、
清潔愛好も、老若男女を問わず増えているような気がする。
 どこでも、こぎれいに同じ(で値段もすぐ解る)フランチャイズ・チェーン
店が業種を問わず、街を占める。古本屋なぞ、佇まいが古めいていると、
なにか入りにくいと敬遠され、ブックオフに人が流れる、とか。
 ひとめで分かる記号化された表面。こちらがメインストリームになって
しまったのではないかしら。ついでに悪口を言うなら、古風で分かりにくく
ても値段が高い店なら、いいお店だろうと、素早く安直な理解が行われて
いるような気もする。

 もう一カ所、『第二章 日本の詩』より__

< 古今集の和歌は、万葉集の中で使われているややこしい書き方に代わって、
 カナで書かれている。誰がカナを考案したか、[略]
 多分八世紀の終わりか九世紀の初めのサンスクリットの知識のある僧侶の手に
 よるものであろう。カナ記号の形そのものは漢字からきているが、アルファベット
 に似た音節記号の発想そのものはインドに由来しているものだろう。カナという
 字は借りの名ということで、マナ(真の名)、漢字と対比される。つまり、カナは
 真の記述法を代用する一時的な置き換えに過ぎないということである。はっきり
 とした日本の記述法は、九世紀から十三世紀にわたって、多くの東アジアの国々
 がそれまでやってきた、中国に対抗しながらも模倣するやり方から脱して独自の
 言語や文化を主張するようになる変化の一環としてできたもので、日本は独自の
 記述法を確立した最初の民族だと言える。>(P63~64)

     (ドナルド・キーン/大庭みな子 訳『古典の愉しみ』 宝島社文庫 2000初 J)

 なぜここを引用したかと言えば、荻原魚雷 編『吉行淳之介エッセイ・コレクション
4 トーク』の『森茉莉 気紛れ「ことば」対談』冒頭に続く。小見出しは<想ふ、思う、
おもう
>である。

~2月14日より続く

 今日の対談でたった一つだけ漢字について言いたいことがあって最初に
 言いますけどローマ字を「羅馬」と書く字ね、たいへんきれいな字で、中国から
 なんのお礼もしないで、ああいう字をいただいてきたことで、鷗外が『即興詩人』
 を書くのにたいへんよかったろうと思って、翻訳の文章を書く上で感謝していたと
 思うものですから、私は父にかわって、中国の人たちにお礼を言いたいと思って
 ......。
 吉行 なるほど(笑)。>(p128~129)

     (荻原魚雷 編『吉行淳之介エッセイ・コレクション4 トーク』
     ちくま文庫 2004初 J)





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by byogakudo | 2016-03-02 18:12 | 森茉莉 | Comments(0)
2016年 02月 14日

森茉莉付近(41)/荻原魚雷 編『吉行淳之介エッセイ・コレクション4 トーク』半分

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 写真は、湊町・日本不動産株式会社の正面。

 吉行淳之介は角川文庫などで、『軽薄対談』『恐怖対談』シリーズを
たぶん全部読んで、全部、店で売った。このセレクションでも覚えている
箇所がいくつかあるから、熟読したのだろう。

~2月6日より続く

 先日、吉行淳之介『懐かしい人たち』の『ふしぎなテープ』から
抜き書きしたが、その森茉莉・吉行淳之介対談の全文が採録されて
いる。

 タイトルは、『森茉莉 気紛れ「ことば」対談』。
 掲載紙は、『図書新聞』1979年4月14日号。
[2月15日追記:出典は、『夢・鏡・迷路』潮出版社 1981年6月]

 吉行家の大きな暖炉で人が焼却できる話から引用__

 私ね、すごく人がいいのに殺人が好きで、ひとり殺してみたいと
 思っているの(笑)。吉行氏は推理小説が好きで書けるものなら書きたい
 と言っていたでしょ、私もそうなの。でもとうてい書けないから、読む
 方にまわってるんですが、とてもおもしろい、とくに殺人が(笑)。
  私が礼賛して止まないドラマがあって、ヒッチコックの十五分くらい
 のものなんですけど、テレビで。七十八歳と八十歳くらいのお婆ちゃん
 の姉妹が、部屋を借りて住んでいる。ばかなもんだから、部屋を借りた
 ときの証文を失くしてしまって、部屋を出なければならなくなって。
 今日は追いたての家主が来るという日、二人で台所に並んで「殺し
 ちゃいましょうか」「そうしましょうね」って。それで毒薬を作って、
 いよいよその人が来ると「どうぞ」って。それでガタンと音がしてね、
 ついでに、妹も倒れてしまうのです。姉さんのお婆ちゃんが妹にも
 飲ませてしまって。姉さんはクリスティのマーブ[注:ママ]ル夫人
 みたいにいつも毛糸を編んでいるんだけど、その殺人がすんでから
 又編み物を始めながら、二人の死骸を見て「散らかっちゃったわ」。
 [以下略]>(p135~136)

     (荻原魚雷 編『吉行淳之介エッセイ・コレクション4 トーク』
     ちくま文庫 2004初 J)

3月2日に続く~


 いきなり春まっ盛りな気温の今日、伊呂波文庫で、仲田定之助『明治商売往来』
(ちくま学芸文庫 正続揃い)と賤の家梅子『都々逸とはうた』(袖珍本)。その後、
ジャズ喫茶GENIUS。中野新橋の日曜日。





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by byogakudo | 2016-02-14 22:00 | 森茉莉 | Comments(0)
2016年 02月 06日

森茉莉付近(40)/吉行淳之介『懐かしい人たち』読了

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 吉行淳之介の、故人を偲ぶ文章だけ集めた一冊。ほとんどが一故人・
一篇だが、森茉莉については、『森茉莉さんの葬儀』と『ふしぎなテープ』
が続く。内容的には、森茉莉が書いた中で知っていることが多い、と言え
そうだが、何しろ吉行淳之介の文章がすばらしい。だから、この本を買って
読んでもらうのが、いちばんいいのだが。

 『森茉莉さんの葬儀』よりダイジェストする__

 1987年(昭和62年)6月6日の森茉莉急死の報を、吉行淳之介は8日夜、
共同通信からの電話で知る。9日付け読売新聞に
<「ひたすら空想と美の世界を一人、歩き続けた女流エッセイスト」>
という記事が出たが、
<この記事にクレームをつけるとすれば、「随筆家、エッセイスト」という
 規定である。森茉莉は一流の小説家であった。>(p25~26)

 6月20日(土)、
<烈しい雨。東京信濃町・千日谷(せんにちだに)会堂で、森茉莉さんの
 葬式が午後一時から無宗教でおこなわれた。>(p25)

 吉行淳之介は三番目に弔辞を読んだが、二番目の萩原葉子と同じく、
『父の帽子』(1957年刊行)の話が入っていた。

<森茉莉さんとはじめて会ったのは、それから[注:『父の帽子』刊から]
 五年ほど後だった。
  もともと、森茉莉さんは宮城まり子の友人である。宮城まり子は室生犀星に
 気に入られて、ときどき訪問していたので、そこで会ったらしい。昭和三十七、
 八年[注:1962~63年]ころ、北千束の私たちの家に森茉莉さんが現れ、それが
 初対面だった。>(p27)

 四番目の弔辞が宮城まり子。彼女は、森茉莉から緊急電話がかかってきたこと
__トマトを、氷を入れたジャーに入れて一年経ってしまったが、どうしようと
いう話__をした。

 最後の喪主・森類による挨拶は『森茉莉の生涯』みたようであり、
かなり長い。

<森茉莉さんが上野動物園の近くに住んでおられた時期のことなど初耳で
 あった。昭和六十一年[注:1986年]秋急逝された円地文子さんも動物園の
 傍に住んでおられたが、近所同士の時期があったろうか、などといろいろ
 考えながら聞いていた。
 [略]
  破格だが、いかにも森茉莉さんらしい葬儀だった。若い女性が多かったが、
 森茉莉ファンなのだろうか。会堂が狭いせいもあって、うしろに立っている人
 もあった。>(p28~29)


 『ふしぎなテープ』は怪談もどき、とも言える。森茉莉死去の少し前、1987年
6月1日から、話が始まる。

 6月1日にふと思い立って、吉行淳之介は物置、書庫、部屋の整理を始めた。
ひと月近く、毎日4、5時間、片づけをした。

< 行方不明になっていた森茉莉さんの選集全六冊が、六月八日に出てきた。
 その夜、森茉莉さんの死去を教えられた。二日前にすでに亡くなられていたが、
 [略]
 こういうことは、ふしぎというより偶然に過ぎないが、もっと手のこんだ偶然が
 起った。
  六月二十日が森茉莉さんの葬儀だったが、その前夜にカセットテープが一つ
 出てきた。森茉莉さんから[略]宮城まり子にかかってきた三時間の電話のうちの
 任意の一時間を、あまりに面白いのでテープにおさめたものと分ったが、その夜は
 二、三分きいただけでやめた。
  翌日、葬儀から帰って、テープを宮城まり子に渡しておいた。間もなく報告が
 あって、そのテープがふしぎな終り方をしているという。
 [略]四、五年前のテープだから、森さんは八十歳くらいだが、年齢をかんじさせ
 ない声である。[略]
  『でもね、ヨーコ(萩原葉子)とわたしは馬鹿同士でおもしろいのよ。わたしが
 死んだらね、吉行淳之介氏がかならず追悼文を書く、とわたしは信じているわけ。
 それを葉子に自慢したのよ、葉子はたちまち真青になって、わたしは誰も書いて
 くれないって、うろうろするの』
  ここでテープがきっかり終りになって、旧式のテープレコーダーのレバーが
 ガチッと鋭い音で戻った。
 [略]
 森茉莉さんとは二十五年ほどのつき合いだが、[注・出版社からの]追悼文の
 依頼はなかった。不意にあらわれたテープの声に催促される気分になったので、
 すこしだけ書いてみる。
  それにしても、一時間のテープがああいう言葉で尽きるとは、計算してできる
 ことではない。この偶然には、じつにおどろいた。[略] >(p30~32)

< 八年前[注:1979年]の四月、ある書評紙の対談のために、森さんが私の家に
 こられた。>(p33)
 そして吉行家の応接間の大きな暖炉で、人が焼却できるという話をする。

< この日、森茉莉さんはスリッパをはいたまま帰ってしまわれたが、こういう
 ことはべつに珍しいことではなかった。>(p34)


 時系列を整理しながら書き抜いてきたが、原文のよさが、まるで消えてしまう。
特に前者など、あたかも自分も葬儀に出席して、あれこれ思い出しているかの
ようにさえ、感じられてくる文章である。
 現前する記憶。考えたり思い出したりする行為には、どれだけの時間が揺蕩って
いるだろう。

 名人芸、というと安っぽく聞こえそうで、でも、他にどういえばいいのだろう。
誰について書こうと、どれもすばらしい。名人が力を抑えて自在に軽やかに語る、
語り口? 
 わたしが書くような駄ブログは、正面からいきんで書くしか言いたいことが伝え
られないが、名人・達人は、自分の文章のゆとりや遊びの部分さえ、眺めながら
書いているかのように見える、と言えば、少しは伝わるだろうか。

     (吉行淳之介『懐かしい人たち』 ちくま文庫 2007初 帯 J)

2月7日に少し続く~

『ふしぎなテープ』は2月14日に続く~





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by byogakudo | 2016-02-06 23:20 | 森茉莉 | Comments(0)
2016年 01月 27日

森茉莉付近(39)/柴田宵曲『明治の話題』読了

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~1月26日より続く

 『7 菊人形』より__

< 鷗外の観潮楼は団子坂の上に在つたから、菊人形を見物しないでも、
 菊人形から出る木戸番の声は、厭といふほど聞かされたらう。「青年」
 の中に「四辻を右へ坂を降りると右も左も菊細工の小屋である。国の
 芝居の木戸番のやうに、高い台の上に胡座(あぐら)をかいた、人買か
 巾着切りのやうな男が、どの小屋の前にもゐて、手に手に絵番附の
 やうなものを持つてゐるのを、往来の人に押し附けるやうにして、
 うるさく見物を勧める。まだ朝早いので、通る人が少い処へ、純一が
 通り掛かつたのだから、道の両側から純一一人を的(あて)にして勧める
 のである。外から見えるやうにしてある人形を見ようと思つても、純一
 は足を留めて見ることが出来ない」といふ描写があるが、そんなに早く
 菊人形見物に出かける者はない。こんな観察は団子坂の居住者にして
 はじめて下し得るのである。>(p187)

 『7 占ひ』より__

< 森鷗外が晩年に人から医者にかゝることを勧説された時、支那の神卜
 の話などを引いて、もし自分の死が予知されたところで、結局それが
 何の役にも立たぬ、前知せずに死ぬのと同一である、仮りに名医の診察
 は間違はぬとしても、それで病人の精神状態がよくなるか悪くなるか、
 我内部に故障があつてその作用の進む速度を知つたならば、これを知らぬ
 と同様に平気では居られぬ、断然名医にも見てもらひたくないと云ふ結論
 が生ずる、と云つて謝絶した。>(p200)

 『7 催眠術』より__

< [注:鷗外の]「魔睡」を掲載した明治四十二年六月の「スバル」は
 発売禁止になつたので、「鷗外全集」が刊行されるまで、どの短篇集
 にも入らなかつた。これは描写や表現の問題よりも、実在の人物に
 関するためだと聞いてゐる。単に催眠術を婦女に施すだけの小説なら、
 同じやうな事柄が菊池幽芳(ゆうほう)あたりの書いたものにあつたかと
 思ふ。>(p205~206)

 『8 豆売り』より__

 鷗外の、木下杢太郎の小説についての批評が引用されている。

<「河岸の夜」の「炒りたあて……まめまめよお……」>などを例に
引いた批評だが、
<この文章を読むと慥(たし)かに昔聴いた「煎りたて豆」の声が耳底に
 浮んで来る。>(p226~227)

 『8 ミルクホール』より__

< 鷗外は「雁」の中に[中略]
 「羊羹と云ふのは焼芋、金平糖と云ふのははじけ豆であつたと云ふ
 ことも、文明史上の参考に書き残して置く価値があるかも知れない」
 といふ説明を加へた。「雁」の発表された明治末大正初年には、まだ
 書生の羊羹といふ言葉が通用した筈であるが、書生といふ種族の亡びた
 今日になつて見ると、この説明は慥(たし)かに必要である。明治年間に
 そんな言葉はなかつたが、もし「書生のカツフエー」といふものが
 存在したとすれば、当年のミルクホールがそれであらう。>(p230)

 『9 牛肉』より__

< 「牛鍋」といふ短篇が鷗外にある。
 [中略]
 [注:鷗外の]「金比羅(こんぴら)」は瀕死の状態に陥つた女の子が、
 牛と葱が食べたいと云ひ出す。父親の文学博士は上等のロースを
 挽肉にして、ビフテキのやうに焼き、柔い葱のバタでいためたのを
 附け合せて持つて来ることを料理屋に命ずる。その三分の一ほど
 食べて、粥のお代りをした女の子はそれから回復する。牛肉といふ
 ものがこれほど効果を発揮した作品は他にないかも知れぬ。吾々の
 感銘も無論「牛鍋」よりこの方が深い。>(p246~247)

 そして回復した女の子・森茉莉は、絢爛たる空中楼閣『甘い蜜の部屋』
他をわたしたちに残してくれた。

 『9 サンドヰツチ』より__

 鷗外の「椋鳥通信」(明治四十二年)に、サンドウィッチの名称の由来が
記されていること。

 『9 アイスクリーム』より__

< 高利貸をアイスと称するのは氷菓子から来た洒落である。鷗外は
 「金色夜叉上中篇合評」の中で「想ふに、これから幾千万年の後に
 ICE-CREAMで氷菓子といふ洒落なども分らなくなつてから、開明
 史家は此小説を研究して、これをたよつて今の人物、今の思想を推知
 するだらう」などと大分遠い将来の事を心配してゐるが、アイスクリーム
 を氷菓子と称するのは、高利貸をアイスと呼ぶほど永く行はれなかつた
 のではあるまいか。>(p255)

 『10 ラムプ』より__

< 東京の一般住宅に電燈がつくやうになつたのは意外に遅かつた。
 [中略]
  鷗外夫人の書いた「旅帰」といふ短篇に、旅から帰つた良人に
 「電気の附いたのを御覧なさいよ」といふことがある。それも簡単に
 引いたのではない。その前の夏あたりから問題になつてゐたのを、
 いろ〱[注:後のいろは、くの字点]の事情を考慮した上、翌年の年末に
 漸(ようや)く二室だけ電燈にするのである。観潮楼あたりがこれだと
 すると、他は大体思ひやられる。>(p293)

 『10 洒落』より__

<坪内博士には慥(たし)かに洒落気が附き纏(まと)つてゐた。逍遥、鷗外
 と並称された森博士の方は、「膝栗毛」の合評の冒頭に「洒落は分らぬ男
 と、世間の相場が極まつて居る僕の事だから、この処少しまごつく気味が
 ある」と断つてゐるくらゐで、それがない。地方出であることは両博士とも
 同じ、外国文学の造詣も略々同じ、年齢も大差ないのだから、やはり個人
 の性格に帰すべき問題であろう。
  明治文学の初頭には江戸から持越した洒落が多分に残つてゐた。
 [中略]
 「くたばつてしめへ」で「二葉亭四迷」などは、洒落としても鮮やかな
 方ではない。洒落のわからぬことを標榜する鷗外博士などは「浮雲、
 二葉亭四迷作」といふ八字は珍らしい矛盾、稀なるアナクロニスムと
 して、永遠に文芸史上に残して置くべきものであろう、と云つてゐる。>
(p312)

 文庫本を横に書き抜きながら、パソコンの漢字変換機能に、正漢字・
正仮名遣い機能が加わらないものかと、しみじみ願っていた。
 森家の話題は出てこないが、『4 香水』と『7 うつし絵』にも抜き書き
しておきたい、可憐な箇所があった。今年の8月23日で、宵曲没後50年
である。

     (柴田宵曲『明治の話題』 ちくま学芸文庫 2006初 帯 J)





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by byogakudo | 2016-01-27 12:16 | 森茉莉 | Comments(0)
2016年 01月 26日

森茉莉付近(38)/柴田宵曲『明治の話題』、まだ続く

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 写真は、たしか荻窪辺りで。

~1月25日より続く

 『4 眼鏡』では、鷗外の「直言」という詩が紹介されている。

<「金縁眼がね、バイシクル。留守を使へど、まのあたり、帰るを
 見つと、上がり来る」>で始まる、無礼な原稿依頼を断る詩だ。
<「たとひ詰まらぬ作なりと、お名前あれば人は買ふ」>なんて
言い放たれては、ますます断るだろう。
 この詩は、
<「金縁眼がね、バイシクル、人は見掛によらぬもの、此直言を
 敢てする」>と終わる。(p123)

 悪妻と言われる森志げだが、こういう手合いから夫を守るために、
切り口上で断ってきたのだろう。

 『5 変つた乗物』では、鷗外「ル・パルナス・アンビユラン」。
文学者の葬式に軍服・騎馬で参列する戯画化された自画像、
だそうである。(p150)

 『5 飛行機』より__

< 鷗外がスツッケンの「飛行機」を訳したのが明治四十三年で、
 四十五年に土曜劇場の人々によつて有楽座で上演された。>(p150)

< 日本の飛行機は明治の産物ではない。
 [中略]
 新たな事象にあこがれる子供の玩具の飛行機は、本物が天空を翔
(かけ)らぬうちから出来てゐた。鷗外の小説「不思議な鏡」の中に
 「さて明治四十五年となつて、新年のお慰みに吸ひ寄せられると云ふ
 光栄を、己が担つたわけだ。屋の棟に白羽の矢が立つと云ふのは古い
 から、おもちやの飛行機かなんかが飛んで来て、引つ掛かつた事だらう」
 とあるが、玩具ならばもう少し前からあつた筈である。>(p152)

 『6 園遊会』より__

<鷗外夫人の書いた小説には園遊会が二つ出て来る。一つは麹町の
 伯爵家といふだけで格別の事もないが、もう一つの方は友達の結婚
 披露で、精養軒の庭がシルクハツトといろいろな形の庇髪(ひさしがみ)
 で一杯になる。やがて夜の景色に変ると、篝火と提灯の光りの中に余興
 の国風舞踏がはじまる、と書いてある。>(p154~155)

 『6 音楽会』より__

< 鷗外訳の「埋木」は音楽家を描いた小説である。天才よりも世才に
 よつて成功を贏(か)ち得たステルニイと、天才を懐いて落魄するゲザ
 との対照はいつの世、如何なる国にも起り得べき事柄で、斎藤緑雨も
 「とはいへゲザは悲むべし、天才ならぬゲザは悲むべし、全盛時を
 もたざるゲザは悲むべし」と云つてゐる。かういふ題材の小説が明治に
 少いのは、必ずしも洋楽が渡来して日が浅かつた為ばかりではあるまい。>
(p156~157)

 『6 かるた会』より__

 お正月のかるたと聞いて、いま頭に浮ぶのは
<教科書にあるやうな平仮名にした>活字体のかるただけだが、
< 標準がるたといふ百人一首の出来たのは、明治の末年であつたろらう。>

 この以前には様々な書体、草書や変体仮名で書かれたかるたしかなく、
書き文字を読み慣れている人とそうでない人とではハンディがつく。標準
がるたができて、ゲーム化されたかるた会になった。

< この標準がるたが鷗外夫人の書いた小説に出て来る。八つになる
 娘さんが誕生日の祝いに貰つたもので、旅行から帰つたパパもかるた
 取りの仲間に入らされる。かるたの読み方が間違つてゐると云つて、
 一々直させるなんぞは如何にも鷗外らしいが、結局さんざんに札を抜か
 れて鷗外の負けになる。__鷗外自身の作品では窺はれぬ家庭生活の
 一面である。>(p159)

__おお、八歳の森茉莉! 鷗外は「このたびは」ではなく「こぬたびは」、
百人一首ではなく百人首と発声する、のだったかしら? うろ覚えだ。

     (柴田宵曲『明治の話題』 ちくま学芸文庫 2006初 帯 J)

1月27日に続く~





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by byogakudo | 2016-01-26 18:01 | 森茉莉 | Comments(0)
2016年 01月 24日

森茉莉付近(37)/柴田宵曲『明治の話題』から

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 写真は昨日に続いて、練馬区関町。大きな廃墟の近くで。

~1月23日より続く

 『3 高利貸』より書き抜く__

< 高利貸を描いた文学は、前に「金色夜叉」があり、後に「雁」がある。
 作者の紅葉も鷗外も、共に高利貸には縁のなささうな人であるが、それ
 だから客観的に高利貸を書く余裕があつたかも知れぬ。
 [中略]
 大学の小使が徐(おもむ)ろに金を溜め、高利貸に転進して池之端に
 居を構へる「雁」の方が遥かに自然である。吾曹先生福地桜痴の隣
 に住んでゐたなどといふのも、あの時代の明治らしくて面白い。>
(p097)

 しかし、森茉莉によれば、件の高利貸の喋り方に、ふだんの鷗外の口調
が混じっていて、おかしいらしいが。

 『4 カイゼル髯』より__

<鷗外がドイツへ行つたのは大分時代が古いが、陸軍に籍を有する関係
 から云つても、その髯がピンと跳ねるのは当然であつた。横山健堂は
 銀座の台湾喫茶店に於て、独字新聞を読みつゝある軍服の鷗外を叙して、
 「両頬の端より、髯の先き刎(は)ねて見ゆ」る一事を見遁さなかつた。>
(p108)

 『4 夏帽』では、夏用の帽子の話として、鷗外の「田楽豆腐」が取り上げ
られている。当時の流行りは鍔が狭くて<「日も何も除けられはしない」>。
 奥さんと、
<「そんならパナマをお買ひなさいまし」
 [中略]
 「パナマは十五円いたします」>と話した後、安価な麦藁帽子を買う。
<帽子店の小僧は「それは旦那方のお被りなさるのではありません。
 労働者の被るのです」と云つて相手にせぬのを、「かう見えて己も
 労働してゐるのだ」と云つて買ふのである。>(p116)

 思わず、森茉莉「父の帽子」に話を続けたくなるが、柴田宵曲の随筆は
漱石「吾輩は猫である」の迷亭君のパナマ帽に転進する。

     (柴田宵曲『明治の話題』 ちくま学芸文庫 2006初 帯 J)

1月25日に続く~





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by byogakudo | 2016-01-24 22:13 | 森茉莉 | Comments(0)
2016年 01月 23日

森茉莉付近(36)/柴田宵曲『明治の話題』を読み始める

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 写真は、今日なぞ猛烈に寒かろう、千川上水。


 本は本から作られる。
 ひとつ、題目を決める。それについてのエピソードが、そういえば、
あの本にも、この本にもあった、と思い出して、また一冊の本が
できる。随筆って、そういうものだろう。(そこから更に一部分を
取り出して書き出すと、ただの抜き書き。)

 『1 演説』より書き抜く__

 漱石「野分」の中での長い演説場面の話から続いて、

<鷗外の書いた「青年」では漱石らしい人物が登場して、イプセン
 に関する話をする。これは演説と云つても小人数の会合であり、
 「声色を励ますと言ふやうな処は少しも無い」とある。学者や文士
 の話は後には講演といふことに相場がきまつたが、こゝでは鷗外も
 演説といふ言葉を使つてゐる。
 [略]
  テーブルスピーチは洋食の卓上から発生したもので、しやべる
 当人は愉快かも知れぬが、謹聴する側は迷惑な場合が多い。鷗外
 夫人が小説の中で「一体坊さんのお経は早い程貴く、食卓演説
 なんぞは短い程有難いと思ふ」と述べたのは千古の鉄案である。
 夫君鷗外博士は演説は断じてやらぬといふことになつてゐるが、
 今日は禁を破つてちょつと挨拶をする、といふ前置の下に、与謝野
 鉄幹(よさのてつかん)の外遊を送る席上で演説を試みたが、それも
 長いものではなかつたやうである。>(p030~031)

 『2 号外』より__

< 明治四十何年頃であつたか、「東京パツク」が号外を出した。
 いづれ内閣更迭前後のものであらうが、その閣僚には文部大臣
 森林太郎とあつた。パツク一流の号外でも、やはり鈴を鳴らして
 売り歩いたと見えて、鷗外夫人の書いた「友達の結婚、パツクの
 大臣、流産」といふ奇抜な題の小説に、ちょつとその事が書いて
 ある。>(p048)

 最初のほうの森志げの小説題名は、何というのだろう?

     (柴田宵曲『明治の話題』 ちくま学芸文庫 2006初 帯 J)

1月24日に続く~





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by byogakudo | 2016-01-23 21:54 | 森茉莉 | Comments(0)