人気ブログランキング |

猫額洞の日々

byogakudo.exblog.jp
ブログトップ
2021年 03月 07日

週末は/も、近所で

週末は/も、近所で_e0030187_23060650.jpg














 今日の写真は数日前か、もっと前か、高円寺で。滅多なことでは
地下鉄や電車に乗れないので、必然、近所歩きがメインになる。
 週末はことに。

 日曜日。細かい用事をすませてから歩き出す。ともかく外に出る。
 三階建アパートの外階段を駆け上がって屋上に消えた猫を見る。普門館ホール
跡地の脇を通り、環七を渡る。坂道を避けようとして、初めての(まだ通ってない
ところがあった!)くねくねした住宅地を通る。左折すると環七に戻るから右手に
進むと、"親切タクシー"の看板のある善福寺川に出た。

 川の湾曲点だ。シラサギが主にいる。今日もいた。ざわっと飛来して樹の枝に止まり、
熱心に毛繕いしている。隣の樹にはヒヨドリかな(?)、数羽止まっている。互いに
知らんぷりしているようだが、鳥類の真相はわからない。しばらく見ていたら川風で寒く
なった。
 
 方南町で夕飯の買物をして戻る。目の前のB・Oは寄らなくていいかと聞かれるが、休日
なので避ける。

 夜、むかし見逃したソール・ライターの特集を見ようとTVをつける。悲しくなるような
構成。終わりのほうの、これも去年の(?)収録らしい、柚木沙弥郎・特集がよかった。
 彼が師事した芹沢銈介より、ずっと好きだ。





サイコパスども__呪・滅亡 酢加与死日照/滅亡 亜屁沈臓/滅亡 汚池腐裏子



..... Ads by Yahoo! ........



# by byogakudo | 2021-03-07 22:24 | 雑録 | Comments(0)
2021年 03月 06日

杉本秀太郎 編『音楽と生活 兼常清佐随筆集』1/3

杉本秀太郎 編『音楽と生活 兼常清佐随筆集』1/3_e0030187_17022539.jpg


















 ブログ内検索で兼常清佐と引いたら、3年前に買っていた。持っていれば、
いつかは読む。持ってなければ読むチャンスをなくす__とか何とか言って、
本が買いたい衝動にお墨付きを与えたいのだ...。


 正宗白鳥が音楽評論を書いたら、こんな感じになるかもしれない。身も蓋も
ないところが似ている。
 
 『I』部の最初が『名人滅亡』。兼常清佐は、名人と称されるピアニストの存在に
疑問をもつ。

< 諸君は必ずそう言うであろう。___ピアノの名人はただ機械的に楽譜を演奏する
 のではない。それには深い感情が織り込められている。大きな思想が流れている。
 美しい夢が漂うている。それが名人の芸である。[略]機械ピアノでは、どんなに
 正確に演奏しても、この美しい夢は消えてしまう。[略]名人の境地は別にある。___
  そこで話は一躍して神秘の世界にはいる。話は一種の信仰談のようなものになって
 来る。名人のピアノには、はたしてそれほどの美しい夢が漂うているものか。[略]
 それがどれほどまで客観的な事実であろうか。些(すくな)くとも或る程度の客観性が
 そのことについて証拠立てられるものであろうか。
  名人の権威にうたれた批評家と、英雄崇拝の感情に酔うた聴衆は、一も二もなく
 そういう。___この名人の指がピアノに触れると、ピアノはこの世のものとも見えぬ
 美しい夢を唄う。それが実に名人の名人たるところである。もしそれがわからない
 なら、お前は音楽を聞く耳が無いのである。>(pp21-22 『名人滅亡』の『4』)

__全編(おそらく)、何事に対しても、こういう徹底した即物的姿勢、合理性に貫かれて
いる。颯爽というより、あくまでも科学的に、しつこく細かく対象に接する。情緒的な
文飾をはがし(憎んでるんじゃないかと感じられるほど)、そのもの/そのこと自体を
見ようとする。可愛げのなさが逆に愛嬌になる。
 ますます正宗白鳥・路線みたい。

 『久野女史をいたむ』は、自殺したピアニスト、久野久についてである。兼常清佐は
初めてベルリンにやってきた彼女の下宿の世話をしたりして、何度か会っていたが__

<私は女史の第一の仕事はまず師匠について正確にピアノの弾き方を勉強する事であると
 思った。
  女史はベルリンでもニホンでのように演奏のため、新しい曲を師匠にもつかずに独り
 で練習しようとした。 
 [略]
 [注:女史は]「ピアノを音階からやり直すといっても、私にはもう年がない。力もない!」
 とも言った。[略]私はこれこそ女史の芸術の一進歩であると思った。
  久野女史は正に過渡期のニホンの楽界の犠牲である。本当にピアノを理解しなかった過去
 のニホンは知らず知らずこの哀れなる天才を弄んでいた。ピアノを聞く代りに熱情を聞いて
 いた。ピアノそのものの興味の代りに久野女史の逸話に興じていた。ピアノの技巧の不備な
 処を逸話や、生活に対する同情や、空虚な文学的な形容詞などで補うていた。またそれ以上
 に一般には音楽を理解する途がわからなかった。そして女史もその不健康な空気の中に生きて
 いた。[略]
  しかしベルリンではもはや逸話も同情も用をなさぬ。ピアノはただ強く早くたたきつける事 
 ばかりが熱情と努力の現れではない。ピアノはまず純粋にピアノでなくてはならぬ。ベートー
 ヴェンのゾナーテは文学上の形容詞でなく、純粋にピアノの音楽の形式の上で再現されねば
 ならぬ。
 [略]
  女史はニホンでの一切の悪夢からさめて、まず此処に一精進を試みるはずであった。もし
 女史をしてそれを拒ましめるものがあったならば、それはニホンで不健全にかち得た盛名で
 ある。その盛名から徒らにえがき出された「世界のピアニスト」の幻影である。>(pp83-87)

 この文章は1935年刊の『音楽と生活』に収められているが、音(演奏)そのものを聴くのでなく、
演奏家個人にまつわる物語ごと聴いてしまう日本人の悪癖は、2021年の現在でも続いている。
 音楽に限った話ではない。絵は絵描きの人生の物語と離れて眺められることなく、文学は作家の
人柄やエピソードとコミにして読まれ、マラソンランナーやスポーツ選手の活躍には必ず家族の絆
物語がからみつき、作品や、パフォーマンスや、記録、もの/ことに、ねちっこく湿気を帯びた余計な
ストーリーがまとわりつく。
 もういい加減、この手の情緒的水増しは終わらないかと思うが、終わらない。

 "日本人の悪癖"なぞというと、偉そうに(?)聞こえるのか非難されそうだが、ほんとに"日本人の
長年の悪癖"だと思うので、どう聞こえようと、非難されようとかまわない。水増しされ、ふやけた美
なんて、あるものか。


     (杉本秀太郎 編『音楽と生活 兼常清佐随筆集』 岩波文庫 1992初 J)






サイコパスども__呪・滅亡 酢加与死日照/滅亡 亜屁沈臓/滅亡 汚池腐裏子



..... Ads by Yahoo! ........



# by byogakudo | 2021-03-06 22:17 | 読書ノート | Comments(0)
2021年 03月 05日

恐喝国家

恐喝国家_e0030187_19494459.jpg
















 先週、2月27日付け東京新聞によれば

< 政府は26日、インターネット上で匿名の誹謗(ひぼう)中傷を受けた被害者
が投稿者を特定しやすくするための関連法改正案を閣議決定し、国会に提出した。
[略]政府は今国会での成立を目指し、来年終わりごろには施行したい考えだ。
 [略]
 改正するのはプロバイダー責任制限法。[略]新たな裁判手続きは事業者[注:
SNS事業者やプロバイダー事業者]を訴えなくても、被害者の申し立てに基づき
裁判所が開示の適否を判断するため、一回の手続きで済み、被害者の負担が軽く
なることが期待される。
 投稿者が裁判所の開示決定に不服がある場合は、異議申し立てにより訴訟に
移行できる仕組み。 
 加害者を特定するための情報について、SNSに書き込んだ時に加え、ログイン
した日時などの通信記録を開示対象にすることも盛り込んだ。書き込んだときの
記録がなく、ログイン時の分しか保存されていないケースがあることに対応する。>

 自殺者も出すweb上の中傷誹謗行為があり、何らかの規制は必要であるが、この
案がそのまま通ると、例えばTwitterで非難の的になった政治家や役人からの訴えが
頻繁に起きることが想像できる。

 Twitterで#をつけて、政治家批判や役人の腐敗ぶりを批判糾弾する匿名ツィートに
対して、"被害者の申し立てに基づき裁判所が開示の適否を判断する"ようになった場合、
投稿した人々は、実名を晒す覚悟でツィートするか、あるいは開示決定を不服として
異議を申し立て、否応なく裁判で実名を晒すか、どちらにしても匿名性を失う。

 この案のままでは、政府批判を許さないぞ、役人の悪口は認めないぞ、という権力側
から国民への脅迫に使われる可能性があるので、国会に持ち出されたら、公人及び公人
であったことがある人々は、SNS被害を訴えることはできない、みたような留保を加える
べきだ。自公組政権や忖度役人の為にする法律であってはならない。


 ガメ・オベール/2011年3月11日





サイコパスども__呪・滅亡 酢加与死日照/滅亡 亜屁沈臓/滅亡 汚池腐裏子



..... Ads by Yahoo! ........



# by byogakudo | 2021-03-05 21:44 | 雑録 | Comments(0)
2021年 03月 04日

鈴木創士氏のコラム『第132回 フェリーニのローマ』

鈴木創士氏のコラム『第132回 フェリーニのローマ』_e0030187_20434889.jpg

















 2021年3月の鈴木創士氏のコラムは、『第132回 フェリーニのローマ』

<どのように死を想おうとも、映画の外では映画は日常でなく、映画のなかでは
 日常は映画である。>

...豊穣なるメメント・モリ...。






サイコパスども__呪・滅亡 酢加与死日照/滅亡 亜屁沈臓/滅亡 汚池腐裏子



..... Ads by Yahoo! ........



# by byogakudo | 2021-03-04 21:03 | 読書ノート | Comments(0)
2021年 03月 03日

(1)バルザック/鹿島茂 訳『役人の生理学』半分

(1)バルザック/鹿島茂 訳『役人の生理学』半分_e0030187_21171124.jpg
















 『役人の生理学』は二部仕立てだ。第一部が『役人の生理学』、第二部が
『(附) 役人文学アンソロジー』と銘打ち、バルザック『役人』の概要と抜粋、
フロベール『博物学の一講義・書記属』、モーパッサン『役人』が収められて
いる。
 その第一部だけ読み終わった。なんとなく、漠然と、フランスの職業人口で
いちばん多いのが公務員、のイメージが強かったが、第一部を読み終えてます
ます、そういう気がしてきた。

 『第1章 定義』によれば、役人とは、

<「生きるために俸給を必要とし、自分の職場を離れる自由を持たず、書類作り
 以外なんの能力もない人間」>(p10)

であるが、これは役人といわず、近代のサラリーマン一般にもいえそうなことで、
19世紀に書かれた本が現代にも通じる主題を持つ。

 けれど、新自由主義経済に荒らされた現在から見ると、なんて牧歌的ないい時代
だろう、あくせくと、やり繰りに追われる低俸給でも確実に保証されている。馘首
の心配がない、すばらしい時代じゃないか! いまを見なさい、区役所の窓口や公立
図書館のスタッフは、ほとんど派遣で、いつ雇用が止まるか知れず、生活設計のし難い
時代じゃないか!

 などと本文を離れての感想に追いやられる、悪い時代である。

 本文に戻って、鹿島茂の単行本版『解説』から引用__

< バルザックによれば、官僚制度とは大革命によって<君主>の代わりに<万人>が
 王座についた時に生まれたものであるという。[略]君主制の時代にも役人はいたが、
 君主と役人の関係は主人と奉公人のそれであり、両者は献身と信頼で結ばれていた。
 ところが、[略]<万人>に仕えるということは誰にも仕えないに等しい[略]。<万人>
 には献身のしようもないし、信頼をうけることもありえない。そのため、役人は
 俸給の分しか働かなくなり、当然の結果、行政事務は遅々として進まなくなる。>
(p244)

__ちょっと待って、バルザックさん。
 それでは、なんでしょう。現在の日本の役人は、抽象的な"<万人>に仕える"状況の
非人間性に疲れたのか、そもそも<万人>への献身、という想像力を欠いているのか、
具体的に顔の見える関係、"主人と奉公人"の関係、"献身と信頼で結ばれ"る関係を、
現代の政治機構における君主である首相や各大臣と結ぼうとしているのでしょうか? 

 <万人>すなわち、税金を払う国民・大衆は役人の出世と関係しないから、直接、役人
の生殺与奪の力を持つ対象に従うほうが身のためと、わきまえて生きるのが役人、という
ことになってしまったのでしょうか?

 このように本文に戻って感想を書こうとする度に、ずれていく。あまりに近代のサラリー
マン社会への射程が合いすぎていて、去年までの第二次安倍政権、現在の菅義偉政権の醜業
悪行ぶりを、ついつい思い出さざるを得ないのである。不幸だ。


     (バルザック/鹿島茂 訳『役人の生理学』 ちくま文庫 1997初 帯 J)





サイコパスども__呪・滅亡 酢加与死日照/滅亡 亜屁沈臓/滅亡 汚池腐裏子


..... Ads by Yahoo! ........



# by byogakudo | 2021-03-03 21:24 | 読書ノート | Comments(0)
2021年 03月 02日

(2)谷崎潤一郎 吉行淳之介 ほか『猫は神さまの贈り物 エッセイ編』読了

(2)谷崎潤一郎 吉行淳之介 ほか『猫は神さまの贈り物 エッセイ編』読了_e0030187_22584650.jpg















 写真は雑司ヶ谷の地中海建築(?)。この日はあまり猫に逢えず。


 飼い猫や通い猫についてのエッセイが多いが、後半には、柳田國男
『猫の島』や、黒田亮『猫にマタタビの誘惑』、島津久基『銀の猫』
などの、民俗学的、あるいは科学的アプローチ、文献からの推理(?)
エッセイが加わる。

 『猫にマタタビの誘惑』では実際に生きた猫を使って実験するので、
抗議したくなる読者も出てきそうだ。

 マタタビは猫の発情期と関係しているのではないかと仮説を立て、

< 京城で調べた猫のうち、雌の一匹だけは他に比してやゝ試験に供し得る
 程度のものであったから、医学部の大澤教授の手を煩して、この猫の卵巣
 を除去して、其の前後に於ける変化を目下調べて居る。卵巣てき出後は例
 の典型的動作を示すことが無くなったことは事実なるも、実験例一例では
 甚だ心細い上、手術前とて内地に於いて又動物園の豹に於いて見たる如き
 歴然たる反応を其都度示してくれた訳では無かったので、[略]近い内に試み
 ようと思っている卵巣ホルモン剤の注射によって、再び元の反応を現すよう
 になったら面白いことゝ考えている。
  尚[略]最近に於いては、生理学教室の中西教授の好意により、猫の大脳の
 一部を除去した後、マタタビの臭いを刺激として鼻に作用させる時、血圧
 その他に何等(なんら)かの変化が現われはしないかを調べたけれど、殆ど
 何の得るところも無かった。>(pp165-166)

__いま、このエッセイを渡されたら、どの出版社、編集者からも書き直して
ください、と言われるだろう。初出は、何年かは分からないが、「東京朝日
新聞」の『学会余談』欄、出典は三省堂刊『痩松園随筆』。昭和8 (1933)年
刊か?

 いまは家庭の犬も猫も、室内飼いだ。ほぼ家族の一員である。だが、70年代
くらいまでは、ペットはヒトとは別種の動物と認識され、扱いにはっきり差が
あった。
 この違いが、『解説』の角田光代を当惑させる。

< 私が猫初心者を実感させられたのは、やはり、猫と人との関係性の、時代に
 おける変化によってだ。昔の猫はもっとこんなに猫っぽかったのか、と思うの
 である。猫っぽかった、というのはつまり、けものっぽいというか、家畜っぽい
 というか。>(p181)

 角田光代は70年ころに生まれた作家だから、ものごころついた頃にはもう、ペット
は家族の一員化していただろう。違和感は無理もない。こちらは老人なので、あの頃
を覚えている。対ペットだけでなく、時代全般がラフだったのだ。振り返れば、長い
時間が横たわっている。

 むかし一度見かけたことがあり、あんまりすてきじゃないと即決した(いまも好き
嫌いが激しいが、若い頃は猛烈に激しかった)中村眞一郎が、エッセイ『私の動物記・
猫/猫の災難』(前者は1968年3月発表 冬樹社刊『氷花の詩』所収。後者は1965年
発表 冬樹社刊『聖者と怪物』所収)を読むと、なかなか感じのよい文章だった。
 

     (谷崎潤一郎 吉行淳之介 ほか『猫は神さまの贈り物 エッセイ編』
     実業之日本社文庫 2020初 帯 J)

(1)『猫は神さまの贈り物 エッセイ編』
(2)『猫は神さまの贈り物 エッセイ編』





サイコパスども__呪・滅亡 酢加与死日照/滅亡 亜屁沈臓/滅亡 汚池腐裏子


..... Ads by Yahoo! ........



# by byogakudo | 2021-03-02 17:15 | 読書ノート | Comments(0)
2021年 03月 01日

P・G・ウッドハウス/岩永正勝・小山太一 編訳『ドローンズ・クラブの英傑伝』読了

P・G・ウッドハウス/岩永正勝・小山太一 編訳『ドローンズ・クラブの英傑伝』読了_e0030187_22052900.jpg


















 ウッドハウスは生涯、ノンセンスな物語を書き続けたのではなく、
人情話もあることを、巻末の特別収録作品『マック亭のロマンス』
で初めて知る。これだけが、ロンドンのドローンズ・クラブに屯する、
のんきな紳士連の妙な物語ではない。階層がまったく違う下町人情
ものだけれど、じめじめせず、なんだか後味がいい。こういうのも
書いていたのだ。じめじめしないのは、語りの速度によるのだろう、
むかしのハリウッド映画のラヴコメディみたいな?

 ソーホーのレストラン、というより安食堂・マック亭が劇場人種の
贔屓する、はやりの店になったいきさつを、書き手が、古株の給仕・
ヘンリーに尋ね、ヘンリーが語る店の裏側の物語(ロマンス)、という
形式で書かれる。
 彼は、店の息子・アンディと、養女のケイとの意地の張り合いみた
ような恋愛模様を、いきいきと語ってくれるのだ。

 ドローンズ・クラブの英傑たちでは、すぐ恋に陥っては即座に失恋
し、おまけに命を救ってやった男に会うたびに、小銭を恵まなければ
ならない宿痾をもつ、フレディ・ウィッジョンがいいな、と思う。


     (P・G・ウッドハウス/岩永正勝・小山太一 編訳『ドローンズ・
     クラブの英傑伝』 文春文庫 2011初 J)





 トランプからバイデン政権に替わったことをいちばん実感させるのが、
報道官や他の政府のスタッフの顔がまともになったことだ。トランプ時代は、
この人にほんとに資格や知識があるのだろうかと疑いたくなる、デブで意固地
な顔ばかり見せつけられていた。体型が崩れてなくても、イヴァンカの無根拠
に自信たっぷりな様子だったり。

 アメリカは変われるし、変わった。日本は、どうか? 政府が公僕ならぬ私僕
の群に取り巻かれる状況は、安倍政権から続いている。

 菅義偉は、なぜ安倍晋三に許されてきたことが、自分が同じようなことをやると、
数倍の怒りを買ってしまうのか分からないのかもしれないが、安倍晋三の門番として
門前払いを繰り返してきたことへの怒りが下地にあるのを忘れている。

 任じゃないのに就てしまった首相の座を、辞めてやるとひとこと言えば、あるいは
山田真貴子に倣って入院すれば、自公組内部から収拾する動きが出るだろうか?

 麻生太郎や安倍晋三はもっとほとぼりが治ってからじゃないと、乃公出でずんば
ってわけにいかないよ、とでも思っている? 自分たちの撒いた種を回収したことが
ない、できない連中が何を言う、とわたしたちは思っているが、最低、このふたりが
復権することだけは防がなくてはならない。日本の劣化をこれ以上深めないために。


サイコパスども__呪・滅亡 酢加与死日照/滅亡 亜屁沈臓/滅亡 汚池腐裏子


..... Ads by Yahoo! ........



# by byogakudo | 2021-03-01 22:07 | 読書ノート | Comments(0)
2021年 02月 28日

(4)芥川比呂志『肩の凝らないせりふ』読了/(5)『決められた以外のせりふ』補遺:2

(4)芥川比呂志『肩の凝らないせりふ』読了/(5)『決められた以外のせりふ』補遺:2_e0030187_22155573.jpg












~2月27日より続く

 『肩の凝らないせりふ』『I』の『母のこと』より__

< 芥川文(ふみ)。塚本善五郎、同鈴の長女であった。弟は八洲(やしま)。
  
  [大きく略]

  母に教えてもらった遊びは、たくさんある。
  春は、地面に散り敷いた桜の花びらを、糸を通した木綿針で刺して、
 花紐をこしらえる。
  夏は、縁日の夜店で、金魚を掬う。針金の輪に張った紙は、初めによく
 水で濡らしておかなければならない。そのほうが、却って破れにくくなる
 のである。
  秋は、押花をする。黄や紅に染まった落葉が、時として花よりも美しい
 ことを教えてくれたのは、母である。
  冬は、雪吊りをする。麻紐に木炭を結びつけて、縁側から吊る。二度三度
 と繰り返すうちに、炭を芯にした雪の塊りは、面白いほど大きくなる。吊った
 雪で、丸い盆の上へ、雪うさぎをこしらえてくれる。南天の実で眼を入れ、笹
 の葉で耳をつくる。やがて、それは、溶けはじめる。やあ、うさぎがおしっこ
 をした、などとはしゃぐ私たちを、母はにこにこして見ている。
  その時代の人としては、どちらかといえば、大柄なほうであった。>
(pp14-16)


         (芥川比呂志『肩の凝らないせりふ』 新潮社 1977初 函 帯)


(1)芥川比呂志『肩の凝らないせりふ』
(2)芥川比呂志『肩の凝らないせりふ』
(3)芥川比呂志『肩の凝らないせりふ』
(4)芥川比呂志『肩の凝らないせりふ』



 『決められた以外のせりふ』で、引用しそびれていた『父の映像』からも引用
したい。幼稚園でクリスマスの聖誕劇の練習のとき、子どもたちを見守る母親たち
の中に混じって、父の顔を見出す__

< ある日私達は、いつものように劇の練習をしていた。[略]最後に、一段と高く
 奏でられるオルガンにつれて、私達は大きな輪をつくりながら、歌いながら、
 行進をはじめる。見なれた教室も、そうやって一定の速度でぐるぐる廻ってみると、
 いつもその度毎に新しい感じがした。
  その日も私は、このメリー・ゴー・ラウンドを秘かに愉しんでいた。___オルガン
 を弾く先生、貼出しの図画、廊下の人達、ストーヴ、滑り台、枯れた藤棚、蓄音器、
 白いカーテン、オルガン___。歌につれて、つぎつぎに視野に入り、過ぎてはまた
 現れてくる風景や人や物達のうちに、ふと私は、父を見た。私はびっくりした。けれ
 ども歌がつづいていた。戸口から庭の方へ、歩みつづけながら、私は振返ってみたが、
 もう光の加減で硝子戸の向うが見えない。やがてオルガンの所までくると、またよく
 見えるようになる。やはりそれは父だった。
  父は寒々と居並んだ三、四人の付添いの人達に混って、硝子戸ごしに、少し前こごみ
 に私の方を見ていた。[略]
 そして私と目が合うと、ちょっと頷いて微笑した。私はまた庭の方へ遠ざかっていった
 が、今度は安心して、振返らなかった。かえって、元気よく手を振り、大きな声で讃美歌
 を歌って行った。オルガンの所へ来ると、父は相変らず微笑しながら、また軽く頷くよう
 にしてみせた。......
                          __1946年8月 文藝春秋__>

(pp278-279 『決められた以外のせりふ』『VI』の『父の映像』)

     (芥川比呂志『決められた以外のせりふ』 新潮社 1970年5刷 函)
 
(5)『決められた以外のせりふ』補遺:2
 




サイコパスども__呪・滅亡 酢加与死日照/滅亡 亜屁沈臓/滅亡 汚池腐裏子


..... Ads by Yahoo! ........



# by byogakudo | 2021-02-28 21:31 | 読書ノート | Comments(0)
2021年 02月 27日

(3)芥川比呂志『肩の凝らないせりふ』半分弱

(3)芥川比呂志『肩の凝らないせりふ』半分弱_e0030187_20513790.jpg


















 『II』の『ピーター・ブルックの「夢」』は、文末に初出が、
(劇・昭和48年5、6月)と記されているので、web検索して出て
きた、1973年の『真夏の夜の夢』来日公演について書かれた
ものであろうが、詳しくて、情熱的で、舞台を見たことがなく
戯曲を読んだことがないのに、引き込まれる。

< すべては結婚前夜の大公の夢、あるいは許婚者の夢、その夢の中でまた恋人
 たちが、妖精の女王が、ボトムが、夢を見る。
  いや大公ではない。私たちの眼前には、大公や妖精の王のせりふを語り、行動
 している役者、アラン・ハワードがいるだけである。あるいは、同じことだが、
 そういう役者である自分を演じているハワードがいるだけである。役者と役との
 関係は、西洋近代劇の正統的な演技術[略]とは、明らかに異っている。彼らの端然
 としたせりふ廻しを聴けば、そこに正統的な朗誦術が生きていることは疑う余地は
 ないが、彼らが役のイリュージョンを作り出そうとしていないことも、同様に疑う
 余地がない。役者たちは、自分たちが大公でもパックでもボトムでもなく、それを
 演じている役者であることを、隠すどころか、いつもはっきりと示している。彼ら
 は私たちと同じ現実の人間で、化粧をしないのもそのためである。[略]
  幾重にも重なった薔薇の花びらが開くように、夢の中から夢があらわれる。同時
 にそれらは紛れもない現実であり、いわば外側の現実の人間である私たちに包まれ、
 さらに劇場の外の現実に包まれている。
  夢は現実であり、現実は夢と同じ構造をもっている。舞台と客席との境界が消える。
  そうなれば、あらゆることが可能になる。
  [大きく略]
  音と音楽がそうであるように、この舞台では、あらゆる異質な劇的要素が、奇妙に
 新鮮な調和を保ちながら、平行し、衝突し、展開する。
  「演劇は正反対のものが一緒になるために存在しているのです」という、プログラム
 に載せられたブルックのメッセージの結びの一句は、そのまま彼自身の「夢」の性格、
 あるいは本質を言いあてているように思われる。>
(pp139-141 薔薇の形の夢と現実)

__わたしはメタフィクショナルな記述に惹かれる、ということなのだろうが、うつくしい
一夜だっただろうと、非演劇ファンに確信させる記述はすばらしい。


    (芥川比呂志『肩の凝らないせりふ』 新潮社 1977初 函 帯)

2月28日に続く~



 今日通りがかったらリコリコが開いていて、レジに男性が坐っていらした。にこにこして
子どもたちの相手をされている。
 棚に目を走らせる。映画本や植草甚一や都筑道夫の単行本が並んでいる。ジャンル拡大中
かしら? 吉行淳之介『淳之介養生訓』(中公文庫)にした。


 巌谷國士Twitterの東松原で見かけた文筆家たち__
2021年2月21日(映画は何だったのだろう?)、
2021年2月22日(東亜は、いい)、
2021年2月23日(歩いているはずだけど、お酒を飲まないので目がパスしていた)__などなど。





サイコパスども__呪・滅亡 酢加与死日照/滅亡 亜屁沈臓/滅亡 汚池腐裏子



..... Ads by Yahoo! ........



# by byogakudo | 2021-02-27 21:23 | 読書ノート | Comments(0)
2021年 02月 26日

(4)芥川比呂志『決められた以外のせりふ』補遺/(2)『肩の凝らないせりふ』開始

(4)芥川比呂志『決められた以外のせりふ』補遺/(2)『肩の凝らないせりふ』開始_e0030187_11430621.jpg











~2月25日より続く

 『決められた以外のせりふ』本文とはあまり関係ない補遺。

 巻末にある出版作品目録を見ていたら、福田恒存『解ってたまるか!
/億万長者夫人』が出ていた。面白そう。森茉莉『私の美の世界』も
このころの出版だ。最後のページに石原慎太郎『化石の森』の惹句が
おかしかったので、全文引用__

<情熱の衰退と理想の喪失、この怖るべき精神の荒廃の中に生きる
 一青年がなお求めるものは......。1300枚の現代の「罪と罰」遂に
 完成! 刊行を期し、加筆推敲中。         9日刊>

__"現代の「罪と罰」"、"刊行を期し、加筆推敲中。"に笑ったが、最後の
"9日刊"は、奥付の5刷発行日が1970年7月10日なので、7月9日刊の意味
だろうか? ほんとにその日までに刊行できたのか? 書店に新刊本が並ぶ
のは公式刊行日の前だけれど、いつごろ並んだのか?

     (芥川比呂志『決められた以外のせりふ』 新潮社 1970年5刷 函)

(4)芥川比呂志『決められた以外のせりふ』補遺


 『せりふ』三部作の二作目、『肩の凝らないせりふ』を読み始めたが、
ここで疑問点、発見。
 三冊の『せりふ』シリーズは、どの巻でも初出誌紙とその発行年月が
記されている。エッセイやコラムは時代との関連が強いので、絶対必要な
情報だが、第一作『決められた以外のせりふ』(1970年刊)ではすべて
西暦表記である。
 ところが第二作『肩の凝らないせりふ』(1977年刊)と、最後の『憶え
きれないせりふ』(1982年刊)とでは、すべて元号表記になっている。
 1970年から1977年までの、この数年間に何があったのか? 発行年月
表記に芥川比呂志の意思はどのくらい関わっていたのか? 細かいデータ
表記は編集部に一任していたのか?

 もし後者だとしたら、1970年から1977年までの間に、編集部(新潮社)の
編集方針が変わったということではないだろうか? 便利でインターナショ
ナルな西暦表示をやめて、よりドメスティック(かつ戦前回帰腐臭漂う)
元号表記に転換したことを意味するのではないか?

 若かったわたしはナイーヴ(うすら馬鹿)だったので、「週間新潮」では皇室
批判もしていると聞いて、天皇制批判を公にやってるのかと勘違いした。
 後に知った実態__但し、電車や新聞の広告で知る範囲__は、皇室や皇族の
悪口も平気で書くが、しかし批判・非難の対象は皇室・皇族に属する男性や
女性ではなく、結婚することで皇室・皇族に加わった女性たちをもっぱらと
するのだった。血筋で区別して、批判・非難の対象とする。
 中心である天皇及び天皇制を批判・非難すると、『風流夢譚』事件みたような
事件に巻き込まれるかもしれないと怯えているのか、叩きやすいところを叩く。
家長に表立って逆らえない/逆らわない、卑屈な小舅/小姑根性にまみれた態度で
ある。情けない。
 子どものころ新潮文庫の装幀が好きだったし、70年代の軽装版・海外文学も
好きだったのに、これを知って以来、新潮社の出版物が遠くなった。






 菅義偉は山田真貴子と手に手をとって、内閣総辞職すれば? 疫禍は収まらず、
総選挙期間になるのでオリンピックはできません、と中止する口実にもなる。


サイコパスども__呪・滅亡 酢加与死日照/滅亡 亜屁沈臓/滅亡 汚池腐裏子




..... Ads by Yahoo! ........



# by byogakudo | 2021-02-26 14:22 | Comments(0)