2014年 06月 22日
湖に小石を投げると波紋が広がる。ひとつの単語が投じられ、小さな うねりを起こし、次々に伝わっていくつかのエピソードを結び、波打つ 物語が描かれる。 「スクリブ」という単語を例にとって見てみよう。読みやすくするために スクリブとボールド表示する。 < 鍋の音だ! しかし、空咳のようなこの音が、ひっそりと静まりかえった パリのスクリブ・ホテルのどこから生まれるというのだろう。> (p71) イヴ・サン・ローランが予約してくれたホテルに、女優イングリット・ カーフェンは主婦でもあるので、何か役に立つかもしれないからと台所 道具を持ってやってくる。案内されたスイートは、白いユリの花だらけ。 < イヴが三日おきに花を取り替えさせたので、しまいには椿姫の舞台の ようになった。 [中略] 彼が彼女の女王の衣装のデッサンを描くあいだ、ユリの花に囲まれた 彼女は息が詰まりそうになる。ジャン・コクトーの『双頭の鷲』は、十九 世紀のバイエルン地方を舞台にした物語だ。そこではアナーキストが...... 電話が鳴る。ミュンヘンからだ。まさにバイエルン地方だ。「もしもし、 イングリット?」それはライナー[注:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー] の、少年のようにやさしくきれいな声だった。この声の持ち主の肉体から 彼女は逃げてきたのだ。 [中略] 「バーダーマインホフのメンバーが、乗客で満員の飛行機をハイジャック した。やつらは飛行機を爆破しようとしている。場所はソマリアの首都の モガディシオだ」。彼の声がホテルの部屋に達して、ユリの花のなかに、 スクリブ・ホテルの白い花のなかに浸み込んでいった。 彼の短いことばとともに、ジークフリートの神話の世界が、ドイツ第三帝国 の子供たちが内に抱える、不幸の意識と憧憬(ゼーンズフト)に満ちた世界が、 まるでオペラの衝撃の場面のように、偉大なデザイナーが君臨するこの静かで 贅沢な空間に入ってきた。 [中略] 彼女はコクトーの戯曲の台詞を口ずさむ。目の前ではイヴ・サン・ローランが、 タバコの煙とアルコールとコカインに付き添われて女王の衣装のデッサンを 描いている。 [中略] なにもかもが混沌と混じりあう。彼女が演じる女王は、警察に追われている テロリストを愛している。これが『双頭の鷲』のテーマで、しかもそのテロリスト は、亡き王に驚くほどそっくりなのだ。彼女はここにやってきたばかりだという のに、ほうら、人生は芸術を模倣する! [中略] 彼女はアンドレアス・バーダーとウルリケ・マインホフのことを思い出す。彼らが 出入りしていた学生や女優のたむろするいくつかのカフェに、彼女もよく通って いたのだ。>(p76~77) ひとつの肉体からもたらされたひとつの声が、それを聞いた別のひとつの肉体に 刻まれたヨーロッパ現代史を露わにする。現在進行形で。 執拗にファスビンダーを追うバーダーマインホフ・グループと、彼らに会いに行く イングリット・カーフェンのエピソード。そして、ヌーヴェルヴァーグ・フィルムの プロデューサーであり、フランス映画界の帝王になり損ねたマザール(ジャン・ ピエール・ラッサム)の思い出が綴られる。 < ある日、気分がすぐれなかったマザールは、<救急医療サービス(サミュ)>に 電話をかけた。若い医師がモンテーニュ大通りにやってきて、聴診器を手に かがみこみ、低いベッドのかたわらの床に座って、入念にマザールを診察した。 [中略] マザールの胸に顔を寄せた医師が眠り込んでいる。呼気からドラッグを吸い込んで 患者よりずっといい気分になってしまったのだ。>(p87) 以来、医師はマザールの友人、ドラッグ・ドクターになる。 <そして夜も更けるころ、<スピード>をやった二人は、車に飛び乗って街に繰り出す。 気のいい医者は、車の床に置いてあった救急用の回転灯を手に取ると、窓から腕を 伸ばして屋根に載せた。>(p87~88) 猛スピードで走るので、小さな青い帽子のような回転灯は、コンコルド広場のオベ リスクの足もとに落ちる。車の方は、ボザール通り十二番地のレストランに着く。 <そもそも、このレストランのちょうど真向かいにあるボザール・ホテルでオスカー・ ワイルドが死んだのだ。あいつはなんて言ったんだっけ? 「人生とは私を眠りから 守ってくれる夢である」。そう、マザールは夢を見続けた。それも、あまりにも長い あいだ。そこから遠く離れたコンコルド広場では、小さな帽子から送り出される 回転照明がオベリスクのヒエログリフを断続的に青く染め、一匹の猫と、死の河 に浮かぶ一艘(そう)の小船と、ひとりの書記(スクリブ)が浮かび上がっていた。> (p88) 書くこと、書き留めることは、血の歴史を書き記す行為なのか。 この10頁余の間に、救急用の回転灯に呼応して、ジャッキー・ケネディがダラスで 冠っていたタンバリン型の帽子のエピソード(その後も繰り返される)も差し挟まれる。 こういう穏やかならざる小説のタイトルを、「黄金の声の少女」とするセンスが わからない。原題は"INGRID CARVEN"である。そのまま「イングリット・カーフェン」 で押し通せばよかったのだ。多数とは言えないかもしれないが、熱烈なファスビンダー・ ファンは喜んで書店に買いに行く。 たしかにイングリット・カーフェンは幼いころ、ナチの将校たちの前でクリスマス・ ソングを歌い、黄金の声と賞賛されたアイロニカルな過去を持つけれど、いきなり 「黄金の声の少女」と聞いて、あるいは目にして、アイロニーを感じるのは無理である。 なんだか少女趣味なタイトルとしか受取れない。もっと少数の熱狂者を信じて出版する 無謀さが必要だったのだ。編集者たちが若すぎて、ケネス・アンガー「ハリウッド・ バビロン」に熱中した世代を知らなかったのかもしれないが、中途半端な文学(少女) 趣味に迎合したタイトルでは売れるものも売れない。 「文学的」も「アーティスティック(いや、"アーティ"とでも言うべきか)」も、 とっととくたばればいい。去勢されたものにしか、消費者は手を出さない、お上品な 傾向があるのは、わたしも知っているけれど、それでも、本を出すのは情熱的な 意志が前提にあるべきではないか。 (新潮クレスト・ブックス 新潮社 2005初 帯 J)
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by byogakudo
| 2014-06-22 13:42
| 読書ノート
|
Comments(2)
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by
卓
at 2014-06-22 18:50
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こんにちは。
ご存じかもしれませんが、イングリット・カーフェン関係で 7月12日そして8月2日から、「ダニエル・シュミット レトロスペクティヴ」と題し、彼の代表作がオーディトリウム渋谷で上映される予定です。 個人的には、彼の作品でカーフェンとマリアシュナイダー共演の 「ヴィオランタ」という映画が観たいのですが、それは上映されず 残念です。でも「ラ・パロマ」は楽しみです。 とりとめのない書きこみですが、では。
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byogakudo at 2014-06-22 21:56
わあ、ありがとうございます! 知りませんでした。 「今宵かぎりは…」も
やるのですね。むかしアテネ・フランセに通いました。 「ヴィオランタ」はタイトルだけ記憶にあります。マリア・シュナイダー、 亡くなってしまいましたし、もうみんな、あんまり消えないでもらいたい のです。 |
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