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猫額洞の日々

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2015年 01月 14日

「井伏鱒二対談集」読了

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~1月13日より続く

 安岡章太郎との対談が二回、収められている。最初の分、「新潮」
昭和五十八年(1983年)一月号掲載より引用。

安岡 僕が青山の青南小学校に行っていた昭和六、七年ごろは、
 青山は都会でありました。だけど大正末期ぐらいの学校の雑誌に
 指導要綱みたいのがあって、それには、「私」を「おら」と呼んでは
 いけないとか「......だんべえ」という言葉を子供に使わせないように
 と書いてあるわけです。青山の、あの辺は大正末期でも半ば農村だった
 んですね。一方では軍人なんかがいっぱい住んでいましたけど。
  志賀さんの家は麻布(あざぶ)にあって、霞町(かすみちょう)あたり、
 あの辺は志賀さんの家の田圃(たんぼ)なんですね。志賀さんから伺った
 話によると、明治の頃は、雨が降ると、志賀さんのお祖父(じい)さんが
 田舟を出して霞町のあたりをずっと見て回ったそうです。
  荻窪の辺が森林であったことは、そういう話からすればよくわかるんだ
 けれども、しかし、想像がつかないですね。東京の発展の仕方というものは、
 本当に暴力的なものだな。計画も何もないですしね。
 井伏 ここも、僕が来たてのころは「......だんべえ」言葉だった。
 安岡 下町の人が山の手をばかにするのは、青山あたりが「だんべえ」
 だったからでしょう。[以下略]>(p298~299)

 もう一つの対談、「新潮」平成元年(1989年)三月号、からも引用。

< 安岡 これは今の人たちに説明のしようがないけど、あの時代の
 閉鎖的な空気というのね、口から口へ伝わってくる極端な右翼思想、
 これが物凄いんですよ。人を脅かしたり、あるいは鼓舞したり。さっきの
 水上滝太郎さんが宮城の前でお辞儀したというのは、よほどのことじゃ
 ないでしょうか。それほど軍部や右翼に遠慮していたということでしょう。
 僕らが中学生の時、つまり二・二六も何も起こらない時は、お辞儀なんか
 しなかった。マラソンの練習で、宮城一周って今のジョギングと同じことを
 やってましたけども、どこでお辞儀するもない。それがある時、電車に乗って
 いると、電車の車掌が「ただ今、宮城前でございます。皆さん敬礼して下さい」
 って言うわけ。これはとってもかなったもんじゃないわけです。小田急でも、
 電車が参宮橋にかかると、明治神宮前だからお辞儀しろという。僕はお辞儀
 せずに知らん顔をしてたら、学生のくせに怪(け)しからん、とひどく怒られ
 ましたね。満座の中で叱(しか)られて仕方がないからお辞儀しましたが、腹が
 立ったなァ。だって電車に乗っててお辞儀するなんて、これはどう考えたって
 全く無意味なことでしょう。だけどそれは誰かが言い出すと、みんな変だと
 思っててもそれに従わざるを得ない。この半狂乱の空気ね、そういうものに
 一人で対抗出来るというものがあるとすれば、それは文学だろう、と思いました。
 つまり自分の文章というものがあると、その中で安住出来るというものがある。
 それは、井伏鱒二とか太宰治とかっていえば、それぞれ自分たちの文章を持って
 いるでしょう。
 [中略]
 僕は、文学にそういう意味で憧(あこが)れた。だから文体のない文学なんて
 いうのは意味ない。何を書くかということじゃなくて、どういう文章を持てるか
 ということが僕の目指すところでした。>(p393~394)

 「これは今の人たちに説明のしようがないけど」と安岡章太郎が前置きした
のが1989年。それから四半世紀、説明も釈明もされることなく、戦前が再開
され、いやな感じに囲繞されている。

     (井伏鱒二 他「井伏鱒二対談集」 新潮文庫 1993初 J)





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by byogakudo | 2015-01-14 20:14 | 読書ノート | Comments(2)
Commented by saheizi-inokori at 2015-01-24 12:54
読みました。
やはりこの箇所は印象にのこりました。
他にもたくさん~~。
いまからあの商店街に出かけてみます。
Commented by byogakudo at 2015-01-24 14:21
今日も寒いです。お風邪を召されないよう、
気をつけて、いってらっしゃいまし。


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