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猫額洞の日々

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2006年 04月 06日

「刑務所を往く」読了

 読んでみたが、わたしは罪と罰の関係をよく理解していない ということが解った。

 まず、神対人間における罪と、共同体構成員間での罪とを区別して考えなければ
ならない。刑務所は、共同体構成員の誰かが誰かの権利を侵した場合の、社会的
ペナルティーを科す場所である、と。
 「やられたら、やり返す」復讐精神を認めていたら、社会の混乱が増すだけだから、
裁判所という第三者に決着を委ねるのが、法の精神と理解してよいだろうか?
 裁判所が何らかの罰を決定して後、刑務所の出番になる。

 さて、その刑務所であるが、犯罪者と認められた人間が、普段の生活を送ることが
できない、拘禁状態に置かれるだけで、充分 罰として機能していると考えるわたしは、
甘いって言われるのだろうか?
 被認定犯罪者には、人権なぞ存在しないと言うなら、国家権力自身が復讐者と
化してよいと認めることになりはしないか。それは結局 復讐する権利を国家が
承認することであり、法の存在意義をなくすことになるのではないか。

 理想論を言ってることは解っている。ただ 現実べったり肯定の、だから目には目を
という立場からは何も次の行為は見えてこない。
 刑務所が社会への悪意をいやます場所でしかなかったら、犯罪の再生産の場としか
機能しなかったら、無意味で、更には有害な存在ではないか。

 寛容さが甘ったれと見なされるいやな時代であるが、寛容であり続けるためには
どんなにタフさが必要か、彼等は想像したこともないのだろう、わが敵は。

                         (斎藤充功 ちくま文庫 03初帯)

by byogakudo | 2006-04-06 18:26 | 読書ノート | Comments(0)


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