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猫額洞の日々

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2016年 10月 11日

加藤周一『西洋讃美』読了

加藤周一『西洋讃美』読了_e0030187_20345461.jpg












 写真は近所で。鍋屋横丁を青梅街道を渡ってすぐ、北に向かう左側。
なに通りって言うんだろう? ここらも神田川界隈である。染物屋、
呉服屋が、ちらほらと残る。

 加藤周一『西洋讃美』。今日、読み終えたが、一年がかりだったような
気がする。地下鉄内で読もうとして、しょっちゅうバッグに入れるのを忘れ、
最初に読んだ詩と詩人についての考察なぞ、なにも覚えていない。

 1958年初版の文庫本。
 あとがきによれば、『現代詩人論』(弘文堂 1951年)から4篇、『戦後の
フランス』(未来社 1953年)から2篇、新聞や雑誌に書いたものから10篇、
選んである。

<いずれも西洋の文学芸術と私との接触の一面を語っている。その一面
 とは讃美の一面であり、故に題して「西洋讃美」という。>(p223)

<すぐれた芸術は、世界の到るところに、殊に日本には沢山ある。私が
 あえて西洋讃美というのは、[略]
 フェノロサからブルーノー・タウトに到る西洋人たちは、日本美術のなか
 で何がほんとうに生きているかを一眼みた瞬間に見破った。彼らは日本の
 木版画や建築、[略]またインドやアッシリアやエジプトの古代美術のなか
 から、実に生々とした美を探しだす眼をもっている。そういう眼はどうして
 養われたか。[略]西洋文化のなかに含まれている一種の普遍的性格によって
 養われたにちがいないのである。昔から地上には多くの文化があった。しかし
 おそらくすべての文化がこのような普遍性を備えていたとはいえない。
 [略]
 普遍的なものは、すべて思想的なものである。石を刻み、積み重ねてつくった
 西洋の形のなかに普遍的なものがあるとすれば、つまるところそれは西洋思想
 の普遍性であろう。私はそれを讃美したし、今も讃美している。>
(p225-226)

 『美術』の『美術史の縮図_ターナーをめぐって_』より引用。

<芸術家としてのターナーには、現在[注:1950年代]の日本の、油絵画家
 のみならず、あらゆる種類の創作家にとっていちばん痛切な問題が含まれて
 いるとぼくは思う。つまり文化的伝統と個人の才能工夫との関係の問題だ。
 [略]
 われわれの国の油絵画家は、[略]巴里へ出かけるときに「日本には油絵の
 伝統がない」というのだ。幸にして彼らの大部分には全く才能がない。しかし
 不幸にして__[略]__才能があったら、ある意味で、彼の問題はターナー
 のそれにちかづくにちがいない。
 [略]
 才能があればあるほど、その芸術家にとって、才能を超えるものとしての、
 あるいは才能とは別に彼の作品を左右するもう一つの力としての伝統の
 比重が大きくなる。もしはじめからその間に分裂があれば、分裂はいよいよ
 激しくならざるをえない。ターナーとは、そういう分裂がいちばん激しく
 なった場合の現象だと思う。
 [大きく略]
 ぼくが古典主義ということばでよぶのは、個人経験乃至感動よりも、普遍的な
 作品の世界を信じるという芸術家の不幸な決心に他ならない。[略]作者は
 語らず画面が語るということになる。敢えてそれを辞さないのは一つの決心
 だろう。しかしそういう決心を可能にするのは決して個人ではない。[略]
 それをできるようにするのは歴史的な文化である。モネーがフランス人だった
 ということの意味、ターナーがフランス人でなかったということの意味はそこ
 に尽きる。
  ターナーの絵はターナーを語る。彼の画面は彼の感動の挿絵だ。われわれは
 ヴェネチアの運河をみないで、運河に相対した画家の感覚と心とをみる。[略]
 或は、画面のなかで、作者が直接に語っているといってもよかろう。彼は[略]
 浪漫主義が語ろうとして語りえなかった不安を、憧憬を、無限なるものをまえに
 した心の動揺を、語るのだ。彼の色は渦をまいている。光はゆれうごいている。
 彼の画面のなかでは絶えず何かが生れている。彼は[略]、自然を生成の相の
 もとに眺めたのだ。生成の相の下に眺めながら、しかも絵をかくという本来
 不可能な企てに手を下したのだ。なぜなら画面は結局固定したものであり、
 動かないものだからである。
 [略]
 ターナーがそれ[注:不可能]を企てたとすれば、[略]企ての動機がわれわれを
 動かさずにはおくまい。われわれは結果を透して動機をみる、ターナーの感動の
 密度を感じる。つまりイギリスの魂の一面に触れるのだ。
  ターナーの場合は個人の場合である。彼は伝統とはならなかったし、彼の後には
 どういう流派も来なかった。近代絵画はフランスで展開したので、イギリスで展開
 したのではない。そしてそれほど必然的なことはなかったとぼくは思う。ターナーは
 偉大なエピソードに終る。それ以上にイギリスを見事に説明する事実が他にあろうか。
 歴史のなかに古典主義がなかったということの意味は、どれほど大きく評価しても、
 しきれるものではない。それはほとんど厳密な意味での芸術的伝統がなかったという
 ことにちかい。しかしもちろん芸術的才能はありえた。おそらく芸術的天才さえも。
 ターナーが今もわれわれに語っているのは、天才がその意味での芸術的伝統のない
 環境に生れたときに、どうなるかということの痛切な実例に他ならない。天才でない
 者は、フランス人、またはイタリア人の模倣をしていた。>(p44-54)

     (加藤周一『西洋讃美』 現代教養文庫リバイバル・セレクション
     1993初版2刷 J)
 





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# by byogakudo | 2016-10-11 21:10 | 読書ノート | Comments(0)
2016年 10月 10日

(1)ドン・ウィンズロウ/東江一紀 訳『ストリート・キッズ』開始

(1)ドン・ウィンズロウ/東江一紀 訳『ストリート・キッズ』開始_e0030187_19452015.jpg












 写真は9月25日の黒田機器株式会社事務所棟。

 ドン・ウィンズロウ(1953年生まれ)の原作は1991年刊行。アンドリュー・
ヴァクス(1940年生まれ)のバーク・シリーズ第一作、『フラッド』は1985年。
 1990年前後のアメリカン・ミステリのトレンドは、子どもの性的虐待だったの
だろうかと思うくらい、物語の設定が似ている。

 あ、その前に。どちらも(始まりは)ニューヨークが舞台であること、主人公の
身近に父親的存在(実の親ではない)がいることが共通している。
 バークなら、刑務所で知り合った年長の黒人男性・プロフ、ドン・ウィンズロウ
の主人公、ニール・ケアリーには、11歳だったニールが掏摸をやり損なった相手、
ジョー・グレアムがいる。ニールは彼に「父さん」と呼びかける。

 ニューヨーカー、ニール・ケアリーは生物学上の父を知らない。母はクスリ代
稼ぎの娼婦だったので、ストリートで自活(掏摸やら掻っ払いやら)していたが、
「父さん」ことジョー・グレアムと知り合う。グレアムもいかがわしい稼業だが、
「父さん」が上流階級のスキャンダルもみ消し業みたような身分になったので、
息子たるニールはその手足として、私立探偵的働きをすることになった。

 警察には相談できない、普通の私立探偵には任せられない類いの、汚れ仕事
の見返りに、上流階級のセクト(?)"朋友会"から学費その他を出してもらい、
23歳になったニールは、コロンビア大学院生である。英文学専攻みたい。

 ガールフレンドと一緒に翌日の試験に備えていたとき、「父さん」から電話が
あり、副大統領候補の行方不明の娘を探すことになる。

 会話の軽妙なやり取りは地の文でも、情景/状況に対するニールの反応という
形で引き継がれ、全部その調子で進むので、必然、話は長くなる。
 "レトリック・命"なのかもしれない。
 バーク・シリーズを青春ものにして明るく軽い調子で書くと、こうなるかしら?

 p108現在、物語は過去に戻り、「父さん」がニールに部屋の掃除のやり方を
教えようとしている。『第一部 片手の拍手の音』という章題で、サリンジャー
を思い出すのが、わたしのお年頃。

     (ドン・ウィンズロウ/東江一紀 訳『ストリート・キッズ』
     創元推理文庫 2006年24版 J)

10月13日に続く~





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# by byogakudo | 2016-10-10 20:11 | 読書ノート | Comments(2)
2016年 10月 09日

フォルカー・クルプフル&ミハイル・コブル/岡本朋子 訳『ミルク殺人と憂鬱な夏』読了

フォルカー・クルプフル&ミハイル・コブル/岡本朋子 訳『ミルク殺人と憂鬱な夏』読了_e0030187_22242994.jpg












 写真は、大原か羽根木辺りで。


 正式な日本語タイトルは、『ミルク殺人と憂鬱な夏 中年警部
クルフティンガー』だが、作者二名をフルネームで、翻訳者名を
フルネームで、それにフルタイトルで作品名を記して原稿を送信
しようとしたら、5文字以上減らすよう通知された。
 原題は、"Milchgeld Kluftingers erster Fall"と書いてある。
ドイツ語を知らないので見当もつかない。

 2016年7月25日発行の文庫本が、近所の何もないB・Oの
108円棚にあったのは、本に読み癖のシワがあり、ページ端に
折り跡もあるからだろう。
 感じがよくて楽しく読み終わった。

 「いやあ、"文学"ってほどのものじゃなくて」と、さりげなさを
粧いたげなシーラッハより、まっすぐ淡々とエンタテインメント
路線を進む姿勢が好もしい、ともいえる。シーラッハの、スタイ
リッシュっていうのか、カッコいい巧さは認めるけれど、"愛嬌"
という感受性の問題だろうか?

 南ドイツの酪農地帯が舞台であるらしい。地理に弱いので、
これまた見当もつかない。google地図を見てみると、ヨーロッパ
って、ほんとに地続きの大陸だ。EUの概念が出てくるのも当然か。
(大陸から外れたイギリスがEUと共同歩調を取りにくいのも、当然
なのか?)

 小さな町の中年男、クルフティンガー警部が主人公の小説中でも、
通貨はユーロである。風采が上がらない警部だが、捜査の才能は
部下から尊敬の眼差しで見られている。
 のどかな町に殺人事件が起き、警部以下、東ドイツ出身の女性
秘書(サンドラ・ヘンスケ。聞いたような名前だと思ったら、バーク・
シリーズで愛聴されるジュディ・ヘンスケと同姓だった)も含めて、
全員、それぞれの仕事に集中する。

 警部の家庭問題(大したことはない)やご近所つき合いなぞも過不足
なく描かれ、警察小説であり、地方都市の風俗小説でもあり__パン屋
の日・祝日の営業が許可されたとか、ガソリンスタンドでガソリンだけで
なく、薔薇の花やCDプレイヤーや煙草も売っているとか__、コージー・
ミステリ風味でもある。どたばた描写もあるが控えめだし、気持よく読める。

 2003年に原作が出版されてから、すでに8作目まで出ているらしい。
続編の日本語訳も、出るといいな。

     (フォルカー・クルプフル&ミハイル・コブル/岡本朋子 訳
     『ミルク殺人と憂鬱な夏 中年警部クルフティンガー』 
     ハヤカワ文庫 2016初 J) 

[同日追記:
 小さな町で起きたひとつの殺人事件が、グローバル経済批判に達する
過程が描かれているとも言えるが、声高ではなく、あくまでもひっそりと、
物語の裏側に語られる。
 地域の農業を守るために、EU諸国では農産物生産に補助金を出している
ことが、きちんと述べられている。TPPなんて、お互い止めた方が身のため
なのだ。]





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# by byogakudo | 2016-10-09 21:21 | 読書ノート | Comments(0)
2016年 10月 08日

(3)半村良『下町探偵局[PART 1]』に追加

(3)半村良『下町探偵局[PART 1]』に追加_e0030187_1185961.jpg












 写真は10月2日のH.I.DEPOTで。

~10月7日より続く

 昨日、スペースが1・5倍あれば、もっとゆっくり話が進められた
のではないかと書いたが、一話から四話までの各ページ数が違ってる!
 第一話が短め75ページ、第二話114ページ、第三話は37ページ、
『第四話 街の祈り』が106ページだ。なぜこんなにページ数がばらばら
なのだろう? 初出は雑誌連載と信じて、一回の分量が同じと決め込んで
いたが、もしかして単行本・初出なのかしら?

 それでも性急な印象には変わりなく、直截すぎる箇所がある。
 『第四話 街の祈り』から、新興宗教を使った金儲け方法の件りを
引用すると__

<このへんの人間なら誰だって興奮するに違いなかった。ハンコを
 ひとつついただけで、何十億という大金がころがり込んでくるような
 うまい話がこの世の中に実際にあるということは、大人なら誰でも
 知っている。政治とは実際のところそういううまい話を陰でこそこそ
 取り扱うことを言うのだし、官庁とはそういう儲け話がしまってある
 場所のことなのだし、警察とはそういうことを見て見ぬふりをする
 組織のことなのだし、税務署とはそういう儲けには税金をかけない
 役所のことなのだし、新聞社とはそういうことを一般に発表しない
 機関のことなのだし、そして選挙とはただ儲けする人を国民が投票で
 決めることなのだし、野党とはそういう立場になりたくてもなれない
 連中のことなのだし......だからこそ野党は貧乏人の味方で、しかも
 貧乏人の頼りにならない集団を意味するのではないか。>
(p316-317)

__その通りだけれど、小説の中の地の文にしては、と思う。

     (半村良『下町探偵局[PART 1]』 潮文庫 1983年2刷 J)

(1)半村良『下町探偵局[PART1]
(2)半村良『下町探偵局[PART 1]』
(3)半村良『下町探偵局[PART 1]』





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# by byogakudo | 2016-10-08 20:20 | 読書ノート | Comments(0)
2016年 10月 07日

(2)半村良『下町探偵局[PART 1]』読了

(2)半村良『下町探偵局[PART 1]』読了_e0030187_2144891.jpg












~10月6日より続く

 かなりメッセージ性が強いとは言える。『第一話 お手伝い志願』なぞ、
ひとつの短篇の中にふたつの公害問題が持ち込まれている。ひとつは連作
短篇集の通奏低音(所長の赤ん坊は砒素ミルクを飲んで死んだ)になり、
もうひとつは第一話の伏線でもあるが、急ぎ過ぎ、詰め込み過ぎに感じる。

 とはいえ、このストレートさには、素直に頷くしかないところがあって、
[PART 1]の最終章、『第四話 街の祈り』の、貧乏人の矜持をまっすぐに
述べるシーンなぞ、やはりいい。

 貧乏人が権力者のやり口に乗っかって金儲けをするようになっちゃあ、
おしまいだというメッセージの清々しさは、誰も否定できないだろう。
 安倍晋三とか麻生太郎とか、政策をすぐに実行できるからという理由で
__翻訳すれば、早いとこエラくなれそうだからという理由で__自民党
から立候補して当選して大きな顔している丸川珠代・風情には到底、理解
できない境地であろうが。

 ただ、できれば、もうちょっと変化球的な記述であってもいいのではない
かしら? 直球でびっしり書き込まれている感じで、スペースがこの1・5倍
あれば、もっと余裕を持って書けたように思われるが、わたしはまたエラ
そうなこと言ってる...。

 新興宗教問題を持ち込まれた下町(しもまち/したまち)探偵局で、
若手の風間健一と下町(しもまち)所長とが対話する。

< 「[略]信仰の自由は言論の自由とおなじ根を持っているんですね。
 他人にその神様を信じないほうがいいと忠告はできるが、信じては
 いけないと強制はできないのか」
  「戦前はそれができたんだ。これを信じろと言われたよ」
  「天皇は神様だ、ってですか」
  「うん。そうじゃないと言えば処罰された」
  「不敬罪......」
  「それが、敗けたら天皇も人の子であるということになった」
  「現人(あらひと)神って、町の教祖さまがよく自称したがりますね」
  「それを信じるのが正しい時代だったんだなあ、あの頃は」
  下町は遠くを見る目になり、
  「信じて体当たりしていった人達がいる」>(p284~285)

 対話はこの後、さらに相対化された展開を見せる。

 [PART 1]の解説は田中小実昌。[PART 2]が都筑道夫・解説とあるが、
潮文庫以外でも解説者は同一かしら? 

     (半村良『下町探偵局[PART 1]』 潮文庫 1983年2刷 J)

10月8日に続く~





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# by byogakudo | 2016-10-07 23:01 | 読書ノート | Comments(0)